日本歴史地名大系 「南串山村」の解説 南串山村みなみくしやまむら 長崎県:南高来郡南串山町南串山村[現在地名]南串山町京泊名(きようどまりみよう)・尾登名(おのぼりみよう)・荒牧名(あらまきみよう)現南串山町域すべてを村域とする。北部・西部は橘(たちばな)湾に臨む。東部の荒牧名を境(さかい)川が流れるほか川内(かわち)川・鬼塚(おにづか)川・水(みず)ノ浦(うら)川・小津波見(こつばみ)川がある。荒牧名の西の尾登名に彦(ひこ)山があり、古墳時代の遺跡が集中する。神功皇后が島原半島を勢力下に置く羯奴(かつど)の将武壮五郎と対決するため串山に上陸、尾登の河内(神智)で戦勝を祈願し、壮五郎を討取ったと伝える。海上からの景観が櫛に似ていることから串山の地名が充てられたという(「京泊八幡宮縁起」八幡神社文書)。武壮五郎は島原半島の島造りにあたった巨人伝説中の味噌五郎を利用したものであろう。中世は串山郷または串山庄としてみえる。江戸時代は島原藩領の西目筋に属する。島原街道が通り、一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。慶長国絵図に「串山」とみえ、高一千六〇〇石余。島原の乱では串山村の二九二軒・一千九六二人すべてが一揆に参加し(島原一揆松倉記)、ほぼ全員が戦死したとされる。村方復興のため幕府の命で九州の諸国や小豆(しようど)島(現香川県)からの移住者があり、小豆島の言葉訛りが長く残されていたという。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図では串山村として高一千九四〇石余とあり、串山のうち荒巻村二七三石余・京泊村一五七石余・池崎(いけざき)村三二三石余・田平(たのひら)村三四八石余の四ヵ村が当村に相当する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by