南有馬村(読み)みなみありまむら

日本歴史地名大系 「南有馬村」の解説

南有馬村
みなみありまむら

[現在地名]南有馬大江おおえ浦田うらだ吉川よしかわ白木野しらきの北岡きたおか古園ふるぞの

現南有馬町域のすべてを村域とする。近世初期は北有馬村とともに有馬村であった。南有馬村内には大江村・古園村といった諸村があり、その総称でもあった。有馬川河口近くに北岡金比羅祀きたおかこんぴらし遺跡があり、甕棺が出土している。中世には有馬氏のはら城が築かれ、同氏の援助もあって戦国期には有馬はイエズス会によるキリスト教布教の中心地であったが、慶長一七年(一六一二)の禁教令後、同一九年有馬直純が日向国あがた(現宮崎県延岡市)に転封になると迫害が強まり、同年一一月中には有馬で七〇人の信徒が捕縛され、拷問をうけ、斬首となっている(パジェス「日本切支丹宗門史」)。元和三年(一六一七)のコウロス徴収文書に「有馬」の信者の指導層とみられる日本人一八人が署名しており、迫害の時代にあってもイエズス会の神父らが信者らの信仰のために尽力していることを証明したもの。同年のローマ教皇パウロ五世の迫害を慰問する勅書に対する同六年の日本信徒奉答文(ヴァチカン古文書館バルベリニ文書)には有馬村の江崎弥太夫(かすはる)・松島弥右衛門尉(まちやす)・益田宗味(とみんこす)が署名している。地内の吉川にキリシタン墓碑がある。

寛永一四年(一六三七)一〇月二四日、南有馬の角蔵、北有馬の三吉というキリシタンが捕らえられ、翌二五日には北有馬で代官殺害があり、これを契機に有馬の百姓が蜂起(「別当杢左衛門覚書」島原半島史)、いわゆる島原の乱で、一揆方は廃城となった原城を修築して拠点とし、天草四郎時貞を総大将に立籠った。有馬村では総家数八二七・人数五千七二のすべてが一揆方として参加(島原一揆松倉記)島原藩および幕府派遣の大名の軍勢と四ヵ月にわたって交戦したが、同一五年二月に落城、鎮圧された。慶安元年(一六四八)幕府代官の鈴木重成が珪文に禅僧一〇〇余人を集めさせて読経を行い、大江名の八幡神社の境内の松林に自然石を刻んだ供養碑を建立している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報