日本歴史地名大系 「南有馬村」の解説
南有馬村
みなみありまむら
現南有馬町域のすべてを村域とする。近世初期は北有馬村とともに有馬村であった。南有馬村内には大江村・古園村といった諸村があり、その総称でもあった。有馬川河口近くに
寛永一四年(一六三七)一〇月二四日、南有馬の角蔵、北有馬の三吉というキリシタンが捕らえられ、翌二五日には北有馬で代官殺害があり、これを契機に有馬の百姓が蜂起(「別当杢左衛門覚書」島原半島史)、いわゆる島原の乱で、一揆方は廃城となった原城を修築して拠点とし、天草四郎時貞を総大将に立籠った。有馬村では総家数八二七・人数五千七二のすべてが一揆方として参加(島原一揆松倉記)、島原藩および幕府派遣の大名の軍勢と四ヵ月にわたって交戦したが、同一五年二月に落城、鎮圧された。慶安元年(一六四八)幕府代官の鈴木重成が珪文に禅僧一〇〇余人を集めさせて読経を行い、大江名の八幡神社の境内の松林に自然石を刻んだ供養碑を建立している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報