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河井継之助 かわい つぐのすけ

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美術人名辞典の解説

河井継之助

江戸末期の越後長岡藩士。名は秋義、号は蒼龍窟。佐久間象山斎藤拙堂古賀謹一郎らに師事し、長崎に遊学して開国論を唱える。藩主牧野忠雅より三代に歴任し、大政奉還戊辰戦争に際しては藩のために奔走する。その間、民政に意を用い、財政改革を行う。明治元年(1868)歿、42才。

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デジタル大辞泉の解説

かわい‐つぐのすけ〔かはゐ‐〕【河井継之助】

[1827~1868]幕末の越後長岡藩家老。名は秋義。号、蒼竜窟。山田方谷らに学び、長崎にも遊学して開国論者となる。藩政改革に成功し、洋式兵法を導入。

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百科事典マイペディアの解説

河井継之助【かわいつぐのすけ】

幕末の越後長岡藩士。名は秋義(あきよし),号は蒼竜窟(そうりゅうくつ)。江戸に遊学し佐久間象山古賀謹一郎に師事。帰国して砲術を研究,開国論を唱える。さらに長崎に遊学後,藩の要職につき政治改革を行う。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

河井継之助 かわい-つぐのすけ

1827-1868 幕末の武士。
文政10年1月1日生まれ。越後(えちご)(新潟県)長岡藩士。江戸で斎藤拙堂,古賀謹一郎,佐久間象山にまなぶ。慶応3年藩執政となり藩政の改革を断行。翌年家老上席にすすむ。戊辰(ぼしん)戦争では中立の立場をとろうとしたが新政府軍にみとめられず戦闘にはいる。長岡城の攻防で負傷,慶応4年8月16日没した。42歳。名は秋義。号は蒼竜窟。
【格言など】天下になくてはならぬ人となるか,有てはならぬ人となれ

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朝日日本歴史人物事典の解説

河井継之助

没年:明治1.8.16(1868.10.1)
生年:文政10.1.1(1827.1.27)
幕末の長岡藩(新潟県)藩士。父は秋紀,母は貞子。2度にわたり江戸,次いで中国,九州を遊学し,慶応1(1865)年郡奉行,翌年町奉行兼務,同3年家老に上る。同年12月藩主牧野忠訓に従い上洛,王政復古で誕生した新政府に対し徳川への大政再委任を建言した。翌明治1(1868)年1月鳥羽・伏見の戦ののち江戸に退く。藩邸の資財を売却しガトリング砲ほかの新式兵器を購入,3月に長岡に帰る。新政府と会津藩並びに奥羽諸藩との間に中立し,双方の融和を図ろうとして失敗,奥羽越列藩同盟に加わる。5月19日政府軍の攻撃を受け長岡落城,7月24日奪回するが同29日再び落城。戦闘で負傷し,松本良順手当てを受けたが甲斐なく陣没。<参考文献>今泉鐸次郎『河井継之助伝』

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

かわいつぐのすけ【河井継之助】

1827‐68(文政10‐明治1)
江戸末期の越後長岡藩士で,戊辰戦争のとき新政府軍に頑強に抵抗した。名は秋義,号は蒼竜窟,継之助は通称。藩の上士の家に生まれて20代で江戸に遊学し,斎藤拙堂や古賀謹堂に儒学を学んだ。またペリー来航後の30代には,西日本に足をのばして備中松山の山田方谷に師事し,さらに長崎にも遊んで見聞を広めた。判断力,行動力ともに独特の強烈さをもつ人格が形成される。1864年(元治1)の郡奉行から68年の家老に至る藩の要職を歴任したが,彼の特異性が最もよく発揮されたのは,戊辰戦争に際して中立主義である。

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大辞林 第三版の解説

かわいつぐのすけ【河井継之助】

1827~1868) 幕末の長岡藩家老。名は秋義。号は蒼竜窟。佐久間象山・古賀謹堂に学び、開国論を唱える。戊辰戦争では中立をはかったが、官軍が認めず、長岡城の激戦で重傷を負い、死亡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

河井継之助
かわいつぐのすけ

[生]文政10(1827)
[没]明治1(1868)
幕末の越後長岡藩士。名は秋義,蒼竜窟と号した。長岡町奉行から長岡藩上席家老,軍事総督。戊辰戦争の際,武装中立策をとったが,政府軍が認めなかったために激戦となり,この戦闘で負傷,戦死した。

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世界大百科事典内の河井継之助の言及

【北越戦争】より

…新政府軍は,動向に疑惑をもたれた長岡藩めざして進撃し,5月に柏崎に本営を,小千谷と関原に会議所を,高田に民政局を設立した。河井継之助に指導された長岡藩は,奥羽越列藩同盟へ走って頑強に抗戦し,長岡城の争奪戦を繰り広げた。戉辰戦争中,もっとも激しい焦土戦は,8月11日,村上藩の落城で終息した。…

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