南八代村
みなみやつしろむら
鵜飼川(金川、現笛吹川)の支流浅川の北側に広がる平地の村で、北は北八代村。西方小石和村(現石和町)から若彦路が鵜飼川を渡り、北八代村に向かう。枝郷に三日市・儘ノ上・森ノ上・馬見塚・原がある(甲斐国志)。中世は八代郷に含まれたと考えられる。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政証文写(「巨摩郡古文書」若尾資料)に「南八代」とみえ、当地の六畝二〇坪が常林寺に安堵されている。慶長古高帳に南八代とみえ、高一千二三三石余、幕府領。ほかに能成寺領二五石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本仙波・石谷・宮城・本多・安倍・高木・榊原・三田の八家領がみえる。安倍氏は寛永元年(一六二四)、宮城・本多両氏は同一〇年、三田氏は同一一年、高木氏は同一二年に宛行われたと考えられる(「寛政重修諸家譜」など)。
南八代村
みなみやしろむら
[現在地名]姫路市南八代町・西八代町・八代本町一―二丁目・八代東光寺町・八代
飾東郡に所属。船場川と大野川の流域に位置し、北は北八代村。戦国時代には八代村に含まれていたが、近世初頭に南八代村と北八代村に分村したとみられる。江戸時代を通して姫路藩領。大庄屋支配は野里村と同じ。江戸初期には村内に中八代と南八代があったが、中頃以後に南垣内・東垣内・広原垣内の名がみえるようになったという(ふるさと八代)。正保郷帳に村名がみえ、田方五二七石余・畠方四九石余、ほかに東光寺(現臨済宗妙心寺派)屋敷分八石余がある。天保(一八三〇―四四)頃の領内郷村高覚書(前橋市立図書館蔵酒井家資料)に免五ツ六分五厘、本田高七三三石余・新田高八石余とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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