八代村
やしろむら
[現在地名]熊毛町大字八代
現熊毛町の北端で、烏帽子岳の北西に位置する高原盆地。熊毛宰判に属した。
「注進案」によれば、長禄(一四五七―六〇)頃は内藤隆春、弘治三年(一五五七)には毛利元清、その後、慶長(一五九六―一六一五)頃は毛利元政の領地であった。寛永二年(一六二五)より毛利氏の一門宍戸広匡の領地になり、三丘御領とよばれた。寛永年中にこの宍戸氏領内から領主就尚の弟就方に一千石を分地、そのうち五〇〇石が八代村域内であった。延享四年(一七四七)に宍戸右近が浮米への変更を出願、一千石の地が上地され、それに伴い八代村域内の五〇〇石も蔵入地となった。
村名は、慶長五年の検地帳に「八代庄」、慶長一五年の検地帳は八代村、寛永三年の熊野帳に八代庄、元禄一二年(一六九九)の郷帳には「屋代村」とあり、「地下上申」以降は八代村として記載される。
八代村
やつしろむら
[現在地名]成田市八代・中台一―二丁目・吾妻一―三丁目・玉造二―四丁目・同六―七丁目
松崎村の南に位置し、西は印旛沼に面する。印旛郡に属する。船形薬師寺が所蔵する応長元年(一三一一)一一月日付の梵鐘銘文に「下州印東庄八代郷船方 薬師寺」とみえ、当地には船方(船形)も含む八代郷が成立していた。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に木内五郎左衛門入道分として八代があり、当地に比定される。万治二年(一六五九)の田畑引方帳(八代区有文書)に酒々井組八代村とある。延宝六年(一六七八)の田畑指出帳(蕨家文書)では高三八七石余、元禄郷帳では高四四二石余。
八代村
やしろむら
[現在地名]龍ケ崎市八代町
破竹川右岸にあり、東は長峰村、西は羽原村。村名は「常陸国風土記」に載る「飯名の社」にちなむと伝える(利根川図志)。南北朝争乱期には足利方にくみした屋代氏が屋代城に拠って南朝方と争ったといわれる(関城繹史)。同城は大永三年(一五二三)土岐氏に攻撃されて落城した(「足利基頼書状」真壁文書)。天正一八年(一五九〇)土岐氏は佐竹氏の与力蘆名氏に敗れて、当地は佐竹氏の支配下に入り、慶長七年(一六〇二)の検地帳(寺崎家文書)には「江戸崎領東条庄社村」とみえ、耕地は田八町余、畑三町余であった。寛永年間(一六二四―四四)の小貝川の流路変更により、当村の開発も進行したとみられ、元禄郷帳の村高は九一四石余となる。
八代村
やしろむら
[現在地名]日出町真那井 八代
真那井村の東に位置し、南は別府湾に面する。北は野田村(現杵築市)、東は歳田村(現同上)。標高二〇―三〇メートルの丘陵地帯で谷間に水田、丘陵上に畑と森および人家が点在している。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)に村名がみえ、高二三一石余。同一〇年の速見郡之内御検地帳(永青文庫)では高二一四石余、田一一町余・畑一二町一反余。
八代村
やじろむら
[現在地名]綾部市故屋岡町 八代
上林川上流域の左岸、支流古和木川との合流点に位置する。東は小和木村、西北は小中村・川原村。南方の支谷は早稲谷とよぶ枝村。旗本城下藤懸氏領。
中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「八重代」とみえるのが早い。
「丹波負笈録」は村の様子について、「八代奥小和木道十八丁、奥左ハ小和木、右ハ早苗谷道、村より二十町許同村の内古由緒の家十軒今ハ六軒山中ナリ、奥八端滝と云布八端はへたる如き名高滝あり」と述べる。「丹波志」は八代村に吉忠卿の家臣の子孫が居住と記しているが、吉忠卿については不明。
八代村
やしろむら
[現在地名]仁多町八代
馬馳村の北、斐伊川の支流八代川を囲む流域の小盆地に位置する。東は中村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高五一二石余、寛文四年(一六六四)の本田高五一一石余。「雲陽大数録」では高四五〇石。明治八年(一八七五)中村を合併。「郡村誌」によれば、合併後の八代村の戸数一三〇(うち工業一四・商業一七・日雇二二)・人数五七二、牛七九・馬二六。
八代村
やしろむら
[現在地名]八幡浜市八代
五反田川左岸の村。東は五反田村、西は舌間浦に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「八代村 茅山有」と記される。宇和島藩領。
太閤検地の石高は一四四石三斗四升、耕地面積の比率は田八二パーセント、畑一八パーセントであったが、寛文検地では石高が一・三倍増加し、田三一パーセント、畑六九パーセントの比率に変化した。
八代村
やしろむら
[現在地名]弘前市船水
弘前城下の西北にあり、東は船水村、北は藤内村、南は石渡村に接する。
貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、船水村の支村とあり、村高九一・二四一石、うち田方七九・三一六石、畑方一一・九二五石。田位は上田から下々田まで、斗代は上田が一・三石と高い。寺社、漆木はない。屋敷地は二・五四九石、屋敷持は八人。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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