南山形村(読み)みなみやまがたむら

日本歴史地名大系 「南山形村」の解説

南山形村
みなみやまがたむら

現山形村域の南半を占め、江戸時代末期に霜畑しもはた村と小国おぐに村に分れた。天保八年(一八三七)の仮名付帳まで南山形村の名がみえるので、二村に分れたのはそれ以降と考えられる。東は木売内きうりない(現久慈市)、南は遠島とおしま山・遠別とおべつ岳・平庭ひらにわ岳と東西に連なる峰によって閉伊へい安家あつか(現下閉伊郡岩泉町)。この峰は白樺が自生する高原地帯で、ここを水源として遠別川・川又かわまた川が北東流し、久慈川の支流となっている。


南山形村
みなみやまがたむら

[現在地名]石川町南山形

南山方とも記す。阿武隈高地の丘陵地帯に位置し、東は谷地やじ村・谷沢やざわ村、北は北山形村。字折木おりきに至徳二年(一三八五)銘の種子板碑がある。字羽入田はにゆうだ御藪おやぶ館と御林おはやし館という中世城館跡があり、御藪館は天正年間(一五七三―九二)石川氏の家臣真木備中守の居館と伝える(石川郡地史)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「南山方」とみえ高五五五石余。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、寛文二年(一六六二)浅川藩領、天和元年(一六八一)白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領、文化六年(一八〇九)幕府領高田藩預地、文政三年(一八二〇)幕府直轄領となり幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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