原野村
はらのむら
[現在地名]北区山田町原野・青葉台・柏尾台・松が枝町一―三丁目・日の峰一―五丁目・桂木一―四丁目・大原一―三丁目・緑町二―八丁目
福地村の東に接する八部郡の村で、志染川両岸の河岸段丘を中心に南と北に山地を負う。中世山田庄に含まれる。暦応三年(一三四〇)赤松円心の丹生寺城攻めに従った広峯長種が、数ヵ月間警固にあたった「柏尾谷」(同年七月日「広峯長種軍忠状写」広峯文書)は現柏尾台付近のこととみられる。現在須磨区福祥寺(通称須磨寺)にある長禄四年(一四六〇)一一月一〇日鋳造の梵鐘に「摂津矢田部郡丹生山田庄原野村安養寺」と村名がみえる。永正二年(一五〇五)一〇月一六日、山田庄政所佐々治家は、近年不作となっていた山田庄原野村矢田ヶ池の年貢二石五斗を代納した栗花落勘解由左衛門に同地を永代宛行い、毎年本年貢三斗を納めさせることとした(「山田庄矢田ヶ池宛行状」栗花落文書)。
原野村
はらのむら
[現在地名]日義村原野
宝暦七年(一七五七)の「吉蘇志略」に「東山道中に在り、然し駅次に非らざるなり、東西二町余、相対して巷を成す、其余は山間に散在す」とあるように、現在は木曾福島町に入る上田村の続きで、駒ヶ岳山麓に展開する正沢原、または大原ともよばれている扇状地の末端の中山道沿いに街村をつくっている原野(上町・中町・下町)が中心集落である。
原野村
はらのむら
[現在地名]海南市原野
下津野村の北東、狭くなって北東流する貴志川の右岸に位置するが、この辺りは平坦な河岸段丘が開ける。那賀郡に属し、北東は七山村、西北は川を隔てて孟子村に対する。平安中期以降は石清水八幡宮領野上庄に属し、中原氏が番頭を勤めた下殿村に含まれ、その中心であったと考えられる。なお中原氏はこの地に屋敷を構え、野上庄番頭職だけでなく図師も勤めたといわれる。野上七村のうち三原野村に属した(続風土記)。
慶長検地高目録によると村高五五五石余、小物成三斗九升二合。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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