日本歴史地名大系 「海南市」の解説 海南市かいなんし 面積:六一・七六平方キロ和歌山県の北西部に位置し、西は黒江(くろえ)湾(日方湾)に開く。市域は旧那賀(なが)郡と名草(なくさ)郡にまたがる。北は和歌山市と那賀郡貴志川(きしがわ)町に、東は海草郡野上(のかみ)町、南は同郡下津(しもつ)町および有田郡金屋(かなや)町に接する。高野山に源をもつ貴志川は、市の東部で直角に折れて北流し、紀ノ川に注ぐが、その谷(野上谷)はそのまま西に続き阪井(さかい)・大野(おおの)を経て黒江湾に通じている。そのため野上谷は海南市の後背地となり、日方(ひかた)地区の発展に重要な役割を果してきた。北部は低山性の丘陵地で現和歌山市域との交通上障害にはならなかったが、南は険しい長峰(ながみね)山脈が延びて、海草郡・有田郡との郡界となり、交通上も藤白(ふじしろ)坂は難所として古くから知られている。生活の主要な舞台は、黒江湾沿いの海岸と野上谷に至る谷底平野であった。この谷底平野は古くから開発が進められたが、水に乏しく、溜池が重要な補助水源として使われてきた。一方、海岸に沿う現市街地域は、熊野街道沿いの狭隘な地であったが、近世には干拓によって塩田が開かれ、大正(一九一二―二六)以降は、海岸を埋立て工業用地が整備されてきた。その結果、近代工業都市としての発展は著しいが、古くから黒牛(くろうし)潟・名高(なたか)浦とよばれてきた景勝の地黒江湾は、冷水(しみず)の沖合の一部を除いて海面が消失した。〔原始〕野上谷の日方川流域から貴志川の河岸段丘にかけて、縄文式土器および石器の分布が多くみられるが、小野田東村(おのだひがしむら)では有舌尖頭器が採集され、すでに縄文時代草創期に人々が生活し始めていたことが知られる。続く早期から中期にかけては、サヌカイト製石器が丘陵の麓につくられた溜池の中から採集されている。鰹田(かつおだ)池・亀(かめ)池・原野大(はらのおお)池などである。本格的な発掘調査が行われたのは、貴志川の低位段丘面にある溝(みぞ)ノ口(くち)遺跡のみである。この遺跡は多数の柱穴から二棟の竪穴住居が予測され、晩期の土器が出土している。晩期の遺物散布地は低地に広がり、亀の川流域の岡村(おかむら)遺跡、日方川流域の大野中(おおのなか)遺跡・鳥居(とりい)遺跡から土器が採集されている。弥生時代になると、和歌山市域にまたがる滝(たき)ヶ峯(みね)遺跡のように標高八〇メートルにある高地性集落から低地まで、遺跡の立地も多様となる。分布地点は亀の川流域と日方川流域の低地に集中する。阪和高速道路の用地から発見された大野中遺跡は、弥生時代の竪穴住居一棟と浅い溝を伴っていた。弥生式土器のほか縄文式土器を出土。周辺四ヵ所に弥生式土器散布地があり、同一の生活圏をもった人々がいたと考えられる。 海南市かいなんし 2005年4月1日:海南市と海草郡下津町が合併⇒【下津町】和歌山県:海草郡⇒【海南市】和歌山県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海南市」の意味・わかりやすい解説 海南〔市〕かいなん 和歌山県北西部,紀伊水道に臨む市。北部は低い舟尾山丘陵で和歌山市に接し,南部には長峰山脈が広がる。1934年黒江町,日方町,内海町,大野村が合体して市制。1955年北野上村,中野上村,南野上村,亀川村,巽村を編入。2005年下津町と合体。合体町村が海草郡南部にあったことが市名の由来。歴史は古く,古墳が散在。中心市街地は黒江と日方で,黒江は黒江塗で知られる漆器の産地として有名。日方は和傘の産地,東部の野上地区は隣接する紀美野町とともにシュロ栽培とその製品の産地として知られたが,シュロ製品は輸入アサなどによる和雑貨の製造に代わった。1964年黒江湾が埋め立てられ,国際拠点港湾である和歌山下津港の一部である海南港として整備されたのをはじめ,埋立地に電力,石油,化学などの近代工業が立地,県下有数の工業都市となった。善福院の釈迦堂,長保寺の本堂などは国宝に指定。サクラの名所として有名な亀池遊園付近一帯は生石高原県立自然公園に属する。JR紀勢本線,国道42号線,370号線,424号線が通り,阪和自動車道のインターチェンジがある。面積 101.06km2。人口 4万8369(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by