古処山城跡(読み)こしよさんじようあと

日本歴史地名大系 「古処山城跡」の解説

古処山城跡
こしよさんじようあと

[現在地名]甘木市野鳥

甘木市の北部、嘉穂かほ町との境にある古処山(八五九・五メートル)からきようが峰にかけてあった秋月氏の山城。古所山城とも記され、秋月城ともいった。「満済准后日記」永享五年(一四三三)九月五日条に「秋月城」とみえ、同年八月一九日、大内持世によって攻め落され、少弐満貞父子三人が討取られている。当城の城主秋月氏は大宰府府官大蔵氏の一族といわれており、種成の時に平家方に味方して京都から九州に下向、鎌倉幕府に抗したため所領を没収されて秋月庄のみを与えられ、その子種雄が当城を築いて秋月氏を名乗ったという(秋月系図)弘安の役において、「筑前国御家人あきづきの九郎たねむね」の兵船に関東御使合田遠俊の手勢が乗組んで、沖にいる元の軍船に向かっている(蒙古襲来絵詞)。元弘三年(一三三三)五月九日、鎌倉に逃れようとした六波羅探題北条仲時らは、近江番場ばんば宿蓮花れんげ(現滋賀県米原町)自刃、仲時一行のなかには秋月二郎兵衛(宗貞)の名がみえる(「太平記」巻九)。建武三年(一三三六)三月、多々良たたら(現福岡市東区)での合戦に敗れた秋月備前守(種道か)は大宰府まで落ち、そこで一族二〇余人とともに討たれているが、秋月氏は阿蘇惟直らとともに一方の大将で、九州の強敵となるはずのものであったと記されている(「太平記」巻一六)。延文四年(一三五九)七月、征西将軍宮を迎え撃つため味坂あじさか(現小郡市)に陣を取った北朝方少弐頼尚勢のなかに三原・秋月の一族がみえ(「太平記」巻三三)、北朝方の少弐氏に転じている。永享五年には先述のように、大内持世が少弐満貞父子を当城で討取っており、この頃までは少弐氏に属していたようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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