可部庄
かべのしよう
保延五年(一一三九)七月二八日の鳥羽上皇院庁下文案(京都醍醐寺三宝院蔵「根来要書」所収)に「永為大伝法院之沙汰、以安芸国能美可部両庄之年貢、宛供米所運送也」とあり、近世に作成された高野山検校帳(高野山文書)の大治二年(一一二七)一一月二日の条に、白河院と鳥羽院が紀州高野山に参詣して、鳥羽院より可部庄用途一〇八石を寄進したと記す。一一世紀後半から一二世紀にかけ、まず院領荘園として成立し、次いで紀州高野山領となった荘園と思われる。
「和名抄」の漢弁郷の系譜をひく荘園と考えられ、根谷川と太田川に挟まれる現可部の市街地は条里地割が広範に検出された地域であり、「一ノ坪」「中坪」などの関連地名も多い(郡中国郡志)。荘域は時代による変化もあり、明確にしがたいが、「芸藩通志」では、可部町、上下両中野村、上下両四日市村、水落村、大毛寺村、今井田柳瀬村、勝木村の九町村を可部庄とし、南原村と南原筋の九品寺村・綾谷村は別にしている。しかし嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(新出厳島文書)では、山県郡の壬生庄の四至に「限南坂山峯并可部庄禰堺大須々木尾鼻」とみえ、壬生庄と接していたことがわかり、おそらくそれは冠山の可部峠付近と推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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