吉名村(読み)よしなむら

日本歴史地名大系 「吉名村」の解説

吉名村
よしなむら

[現在地名]竹原市吉名町

賀茂郡下野しもの村の西南に位置し、東南瀬戸内海に面する。西は木谷きだに(現豊田郡安芸津町)、北は賀茂郡竹原東野たけはらひがしの村。木谷村とともに豊田郡の飛地である。

中世には沼田新ぬたしん庄に属し、仁治四年(一二四三)二月日付の安芸沼田新庄方正検注目録写(小早川家文書)によれば、同二年に「吉名八丁五反小、除田一丁三反大(中略)定田七丁一反大、御佃一反半、官物田七丁六十歩(中略)所当米十六石六斗三升九合、公物十石三斗二升二合、地頭分六石三斗一升七合」が検注された。寛元三年(一二四五)正月一七日付の安芸沼田新庄内吉名草井黒谷譲状写(同文書)によると、小早川季平の子七郎季泰が沼田新庄のうち吉名および草井くさい黒谷くろたに(現賀茂郡大和町)を譲られたが、それはさらに竹原小早川初代政景の妻となった娘の長春に譲られ(文応元年七月一五日付「平季康譲状写」同文書)、応長二年(一三一二)長春(出家して如心)から竹原小早川家二代の政宗(景宗)に譲られた(同文書)


吉名村
よしなむら

[現在地名]小高町吉名

北東流する小高川の東岸に位置し、北は南小高村、東は岡田おかだ村。「奥相志」には吉奈村とみえ、「又吉名に作る」とある。「和名抄」にみえる行方なめかた郡吉名郷の遺称地とされる。南北朝期と推定される相馬一族闕所地注進状案(相馬文書)によると、相馬胤村―胤氏―五郎左衛門尉師胤へと伝領された所領について「一分跡、行方郡内大田村土貢六十貫文、又同郡吉名村土貢四十貫文、先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之」と記される。相馬系図(歓喜寺蔵)の師胤の項には、鎌倉幕府によって闕所とされたのは永仁(一二九三―九九)頃とあり、長崎入道とは得宗御内人の長崎思元のことであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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