木谷村
きだにむら
[現在地名]鹿屋市古江町・花岡町・船間町・古里町・海道町・小薄町
高隈山地南西麓の台地上と台地崖下の海岸部を占め、北は新城郷新城村(現垂水市)、東から南は白水村。近世初期は大姶良郷のうちで古江村と称した。享保九年(一七二四)島津久儔の私領となり、翌一〇年以降は花岡郷のうち。中世は下大隅郡に属した。文和三年(一三五四)三月日の禰寝道種軍忠状(池端文書)や同日の禰寝清成・同清有軍忠状(禰寝文書)などに「下大隅郡木谷城」などとみえ、観応三年(一三五二)一二月三日に楡井頼仲などに率いられた薩州南朝方が大姶良城を忍び取って以降連日合戦となり、頼仲方は文和二年七月一二日には木谷城を築いて立籠ったが、翌三年二月二四日、禰寝勢は木谷城などを落城させた。応永一〇年(一四〇三)一一月二九日、禰寝清平に木谷村ならびに大禰寝のうち郡本村(現大根占町)を除いた「下大隅郡之内自坂上」が兵粮料所として宛行われている。
木谷村
きだにむら
[現在地名]安芸津町木谷
三津湾に西面する豊田郡の飛地で、東は同郡吉名村(現竹原市)、西は賀茂郡三津村。山がちで平地に乏しく、村内北部山地に発する郷川と、その東西をそれぞれ南流する小河川があるが、用水に乏しく、隣接諸村と同じく溜池によって灌漑される。海上の唐船島・保々路島(現ホボロ島)・鼻繰島が当村域に属した。
村名は貞治二年(一三六三)三月一八日付小早川実義自筆譲状(小早川家文書)の割注に「以木谷・三津・風早三ケ村号三津村」とみえ、応永三四年(一四二七)一一月一〇日付小早川弘景自筆譲状(同文書)にも、その所領のなかに三津村などとともに列挙される。
木谷村
きだにむら
[現在地名]山崎町木谷
揖保川の支流菅野川の中流域に位置し、東は加生村・春安村。もとは高下村の一部で、諸願書控帳(庄家文書)に寛永一二年(一六三五)同村から市場村が分村、それ以前に当村が村高六一石余をもって分村したとある。正保郷帳では市場村とともに高下村に含まれている。元禄郷帳では「古ハ高下村」と注記され、高六一石余。領主の変遷は山崎村と同じ。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には高六一石余、四ツ成高五〇石余、田六反余・畑八町三反余、小物成銀三〇匁余(山畑役三〇匁・茶役九分)・桑役(真綿)一〇匁余、家数一一・人数八六、牛七。
木谷村
きだにむら
[現在地名]白川村木谷
庄川沿いに保木脇村の東南にあるが、白川街道は対岸を通るため橋を架けて通行していた。現高山市福成寺の文亀二年(一五〇二)実如下付の方便法身尊像裏書に「木谷村」とみえる。金森氏時代の高は二七石余(飛騨国中案内)。元禄飛騨国検地反歩帳の高二二石余、田二町一反余・畑五町二反余、元禄一〇年(一六九七)再び高山別院照蓮寺(現高山市)領となり、のち幕府領分五石余が加わった(「岐阜県史」など)。前掲国中案内の家数六(すべて百姓)。文化一五年(一八一八)には家数七・人数一二〇(「宗門改帳」高山別院照蓮寺蔵)。「斐太後風土記」では焼畑四反余、享保一二年(一七二七)高入れの焼畑二町八反余、同寺へ納める焼畑三町六反余。
木谷村
きだにむら
[現在地名]備前市木谷
山陽道筋の村で、南西は伊里中村。同村の新田であったが、閑谷学校の運営に関連して元禄一三年(一七〇〇)木谷村とされた(→閑谷新田)。「備前記」では高二三二石余、田畠一五町余、家数五〇・人数約二七〇。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三五七石余で蔵入。二口高二五三石余、残高二一八石余、うち田方八町四反余・一五四石余、物成一〇〇石余、畑方五町五反余・六三石余、物成三一石余。家数五九(本村三六・矢ノ谷一・山田原二二)、浄土宗伊里中村浄光寺檀家三八、同宗岡山光清寺四、真言宗蕃山村千手院一七。
木谷村
きたにむら
[現在地名]南勢町木谷
下津浦村の南、湾曲した杉の浦の北側にある。南は宿浦、西方の海中に杉島を望む。甲
七五三氏蔵文書によると、甲
家が大永年間(一五二一―二八)当地に来て開墾のうえ開村したと伝える。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)では高三九石七斗余のうち田方三〇石一斗余・畑方九石六斗余。
木谷村
きたにむら
[現在地名]池田町木谷
土合村の枝村で集落は割谷川の最上流標高約四〇〇メートルにある。割谷川を流れてきた椀の破片に驚いた土合村の人たちが、村の次男・三男を説き上流に開村したのが当村の始まりという(池田町史)。漆掻・養蚕・鳥黐などの副業と炭焼を主とした。村名は元禄郷帳にみえ、高一五・八一石が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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