吉地村(読み)よしじむら

日本歴史地名大系 「吉地村」の解説

吉地村
よしじむら

[現在地名]三加和町西吉地にしよしじ

南西部に二城にじよう(三一九メートル)があり、東部和仁わに川が南流、南は野田のだ村、西は相谷あいのたに村・関東せきひがし(現南関町)、北は和仁村と接する。享徳二年(一四五三)の権現宮鐘銘(肥後国志略)に「玉名郡東郷庄吉地村権現宮」とある。慶長一三年(一六〇八)検地帳に「吉地村之内中林村」とある。近世は南関手永に属する。「国誌」に「里俗西吉地村ト云、翠簾置村山森村藤付村福村原口村古閑村今古閑村畑田村牟良村栗崎村等ノ小村アリ、筑後国真弓村ヘノ道筋ナリ」とある。


吉地村
よしじむら

[現在地名]中主町吉地

西河原にしがわら村の北西、野洲川右岸の平地に立地。葭地よしじとも書く。上六かみろくつぼ・下六ノ坪・東十三ひがしじゆさんなどの古代条里の数詞坪地名が残る。貞治元年(一三六二)一〇月七日の佐々木氏頼預置状(蒲生文書)に「野洲郡吉池荘」とみえ、幕府料所である吉池庄(吉地庄か)を市村六郎に預けている。永享一一年(一四三九)一〇月四日、将軍足利義教が延暦寺根本中堂領兵主ひようず郷内吉地村の奉行職を正実坊将運に安堵している(保阪潤治氏所蔵文書)


吉地村
よしじむら

[現在地名]浜田市吉地町

周布すふ川左岸に位置し、西は西にし村、南は櫟田原いちいたばら村、北は周布川を隔てて和田わだ村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一一四石余、年貢高は田方六四石余・畑方九石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では改出高七石余が記され、宝永石見国郷村帳では高一一四石余。享保暦浜田領石高改写(稲垣家文書)では高一三七石余。享保七年(一七二二)幕府が諸大名に上げ米を課したとき前年来不作・飢饉に苦しんでいた農民浜田藩検見を妨害するため田地に人糞をまいた。当時原井組大庄屋を兼ねていた当村庄屋三郎右衛門はその首謀者とされ、徒党訴願の企てもあったとして父子五人は翌八年三月に斬罪に処せられ、所払・財産没収となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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