吉本せい(読み)ヨシモト セイ

20世紀日本人名事典 「吉本せい」の解説

吉本 せい
ヨシモト セイ

大正・昭和期の興行師 吉本興業創業者。



生年
明治22(1889)年12月5日

没年
昭和25(1950)年3月14日

出生地
兵庫県明石市

出身地
大阪府大阪市

経歴
明治40年大阪上町の荒物商、吉本吉兵衛に嫁いだが、夫の芸人道楽で散財。45年夫にすすめて大阪・天満天神裏の端席・第二文芸館(のち天満花月)を借り、吉本興行部の看板を掲げて格安の木戸銭寄席経営に乗り出した。これを足がかりに次々に寄席を買収する一方、大阪の寄席興行界に一大勢力を占めていた岡田反対派を吸収。大正13年夫の死後実弟の林正之助、林高弘を片腕に事業を拡大、京阪神に花月の名を冠した寄席30余を持つまでになる。昭和7年吉本興業合名会社を設立して社長に就任、東京、京都、横浜にも進出し、寄席は47軒を数えた。その後、エンタツ・アチャコによる近代的漫才を創始、また芸人の専属制をしき、家内工業的な寄席を近代的娯楽産業に成長させた。また出雲地方の安来節寄席芸として衆知させた功績もある。山崎豊子の小説「花のれん」のモデルとなった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

知恵蔵mini 「吉本せい」の解説

吉本せい

芸能プロダクション吉本興業株式会社の創業者、興行師。1889年12月5日、兵庫県明石市出身で、大阪府にて米穀商を営む林豊次郎の三女として生まれる。1907年に大阪府の荒物商・吉本吉兵衛(通称・泰三)と結婚するが、夫は剣舞や落語に熱中して家業を顧みず、経営は傾いた。12年、夫婦で天満天神裏にあった寄席「第二文藝館」を買収し、芸人を集めて興行を開始する。翌13年に「吉本興業部」を設立。24年に夫を亡くしたが、2人の弟の協力を得て事業を拡大し、32年、吉本興行部を改組して「吉本興業合名会社」を発足させ、社長に就任する。48年には吉本興業株式会社に改組し、会長を務めた。50年3月14日、死去。享年60。寄席経営を娯楽産業にまで発展させたその生涯は、山崎豊子の小説「花のれん」やNHK朝の連続テレビ小説・第97作「わろてんか」のモデルとなった。

(2017-10-3)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉本せい」の解説

吉本せい よしもと-せい

1889-1950 大正-昭和時代の興行師。
明治22年12月5日生まれ。夫吉兵衛(のち泰三と改名)に協力して大阪天満(てんま)の第二文芸館をかり寄席(よせ)興行をはじめる。昭和7年吉本興業合名会社を設立,社長となる。漫才師を中心に芸人をそだて,寄席経営を娯楽産業にまで発展させた。昭和25年3月14日死去。60歳。大阪出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「吉本せい」の解説

吉本 せい (よしもと せい)

生年月日:1889年12月5日
大正時代;昭和時代の興行師。吉本興業創業者
1950年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の吉本せいの言及

【寄席】より

…近代の大阪には,法善寺,千日前,松島,道頓堀,新町,座摩(ざま),御霊(ごりよう),北之新地,上本町(うえほんまち),日本橋,天満天神,内本町,梅田などで寄席が繁盛し,特に千日前の播重(はりじゆう)席のような女義太夫(おんなぎだゆう)専門の寄席が栄えたこともあったが,大正末から昭和にかけてしだいに衰退し変貌していった。大阪の寄席興行については,吉本(よしもと)せい(1890‐1950)という傑出した興行師が出現したため(吉本興業部,吉本興業合名会社を経て,今日の吉本興業株式会社につながる),大正から昭和にかけて東京とは大いに違う寄席興行の形態がとられて今日に及んでいる。 そのほか,京都,神戸,名古屋にも古くからの寄席興行の歴史があり,江戸時代から多数の寄席芸人が出演した記録がある。…

※「吉本せい」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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