日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田ルイ子」の意味・わかりやすい解説
吉田ルイ子
よしだるいこ
(1934/1938―2024)
フォトジャーナリスト。北海道室蘭(むろらん)市に生まれる。本名は類子(るいこ)。小学生のとき、同じ学校のアイヌ民族の男の子への差別を目の当たりにしたことが、後にフォトジャーナリストになる動機となった。その後、父親の転勤のため東京に転居。慶応義塾大学法学部で国際関係論を専攻し、1959年(昭和34)に卒業する。NHK国際局の嘱託を経て、朝日放送にアナウンサーとして勤務。1961年フルブライト交換留学生として渡米し、オハイオ州立大学とコロンビア大学で学び、フォトジャーナリズム専攻で1964年コロンビア大学より修士号を取得する。そのままニューヨークに滞在し、ハーレムに住んで写真を撮り始める。1968年ハーレムの子どもを撮った写真で公共広告賞を受賞し、広告会社にスタッフ・フォトグラファーとして勤務する。1971年、10年のニューヨーク滞在を終えて帰国し、写真展「ハーレム Black is Beautiful」を開催、翌年『ハーレムの熱い日々』を出版し、写真のみならず、その文章力においても注目される。
その後も作品を雑誌に掲載したり、『吉田ルイ子のアメリカ』『自分を探して旅に生きています』(ともに1974)、『ぼくの肌は黒い』(1978)などを出版するが、その多くが写真と文章とによる著作である。これらの仕事の多くに共通しているのは、優しさ、友情、差別、明るさなど、多くの人に伝わりやすい、シンプルなメッセージである。
1982年には映画『ロングラン』の監督を務めるなど多彩な活躍をする。1980年代のなかばからは『サンディーノのこどもたち』(1985)や『南ア・アパルトヘイト共和国』(1989)、『いま、アジアの子どもたちは…』(1993)など、アメリカだけでなく、世界へ関心を広げた仕事をしている。1989年(平成1)には、「黒人問題を軸としたフォトジャーナリストとしての活動」により、JCJ(日本ジャーナリスト会議)特別賞を受賞。
その後も子どもや黒人問題をテーマとする仕事が多いが、『世界おんな風土記』(1983)、『女たちのアジア』(1984)、『華齢な女たち』(2001)など、女性をテーマとする仕事も持続したライフワークの一つであった。かつて市川房枝(ふさえ)を撮ったとき、しわに美しさを感じたのが動機となって、長く撮り続けることになったという。
[大島 洋]
『『ぼくの肌は黒い』(1978・ポプラ社)』▽『『サンディーノのこどもたち――私の見たニカラグア』(1985・大月書店)』▽『『南ア・アパルトヘイト共和国』(1989・大月書店)』▽『『アパルトヘイトの子どもたち』(1990・ポプラ社)』▽『『わたしはネコロジスト』(1990・ブロンズ新社)』▽『『いま、アジアの子どもたちは… 戦争・貧困・環境』(1993・ポプラ社)』▽『『南アフリカの新しい風 MASAKANE』(1995・大月書店)』▽『『少女マギー 南アフリカ アパルトヘイトをのりこえて』(1996・ポプラ社)』▽『『華齢な女たち beautiful age』(2001・中央公論新社)』▽『『ハーレムの熱い日々 Black is Beautiful』『吉田ルイ子のアメリカ』『自分を探して旅に生きています』(講談社文庫)』▽『『世界おんな風土記』『女たちのアジア』(旺文社文庫)』▽『小河修子著『こんな生き方がしたい フォトジャーナリスト吉田ルイ子』(1998・理論社)』▽『いわさきちひろ絵、吉田ルイ子写真・文『子どもは見ている』(1999・講談社)』