日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒人問題」の意味・わかりやすい解説
黒人問題
こくじんもんだい
「黒人問題」を一般に「アフリカに祖先をもつ人々」に対する差別と抑圧の問題と理解するならば、それは、黒人が住む世界各地に存在する問題といえる(アフリカや南北アメリカだけではなく、今日ではヨーロッパ各地にもかなりの数の黒人が居住している)。しかし、それぞれの地域の「黒人問題」にはその存在形態や歴史的背景に違いがあり、この「問題」の本質を理解するためには、それぞれの社会におけるこの「問題」の位置づけが不可欠である。なぜならば、「黒人問題」は、「黒人」とよばれる人々の特質のゆえに発生した問題というよりは、その社会がもつ特質のゆえに発生した問題だからである。ここでは、とくにアメリカ合衆国におけるアフリカ系アメリカ人の「黒人問題」に限定して論じる。
[上杉 忍]
社会的概念としての「黒人」
10年ごとに行われるアメリカ合衆国国勢調査の、1990年実施時における「黒人」人口は2999万人で、全人口の12.1%を占めている。この国勢調査の分類方式では、黒人との混血人口は独自の分類項目に括(くく)られず、「黒人」のなかに含まれる。それは、この国では黒人の「血が一滴」でも混じっていれば、どんなに肌が白くてもすべて「黒人」として社会的に処遇されるという現実を反映している。
混血の存在を社会的に認めなかった南部では、アフリカ系人種の「血が一滴」でも混じっていれば「黒人」とみなし、差別する法律や社会習慣を古くから頑強に維持してきた。このような社会は、「混血」が独自の社会集団として機能しているカリブ海地域や中南米とは著しく異なっている(その理由は後述)。合衆国の国勢調査において、黒人の「血が一滴」でも混じっていれば「黒人」と分類する南部方式が全国的に受け入れられ、定着するのは1930年以降のことである。それ以前の分類方式は一貫しておらず、ある国勢調査では混血の割合が「2分の1」から「8分の1」まで細かく分類された。また、別の調査では一括して「黒人」と分類されたりもした。
今日合衆国に在住している「黒人」人口のうち、先祖に1人でもヨーロッパ系人種をもつ者の割合は、75%に及ぶといわれる。しかし、これらの人々はいずれもこの国では「黒人」なのである(ちなみに、近年のDNA分析に基づく研究では、現生人類の共通の起源はアフリカにあるという説が有力であり、「血の一滴」の論理によれば、そこから分岐したヨーロッパ人は全て「黒人」だということになる)。すなわち、合衆国における「黒人」とは、この国が独自の論理に基づいて国内の人間を分類する際に用いた概念であり、それは生物学的概念ではなく社会的概念なのである。このような規定がこの国でごく普通に受け入れられている事実は、これらの人々が「一般アメリカ人」としてではなく「黒人」として、いいかえればアメリカ社会の真の主人公としてではなく、何らかの意味でのアウトサイダーとして処遇されていることを示している。
[上杉 忍]
黒人差別を示す若干の数字
アメリカに住む黒人が今日もなお差別的な状況に置かれていることを示すいくつかの数字をあげておこう。
以下のデータは、1970年代から90年代までの間に人種別職業構成比がどう変化したかの概要である。
〔ホワイトカラー〕
黒人その他
1970年 27.9%
1975年 34.7%
1980年 39.2%
1995年 49.0%
白人
1970年 50.8%
1975年 51.7%
1980年 53.9%
1995年 62.2%
〔ブルーカラー〕
黒人その他
1970年 42.2%
1975年 37.4%
1980年 35.8%
1995年 29.3%
白人
1970年 34.5%
1975年 32.4%
1980年 31.1%
1995年 24.8%
〔サービス業〕
黒人その他
1970年 26.0%
1975年 25.8%
1980年 23.1%
1995年 20.6%
白人
1970年 10.7%
1975年 12.3%
1980年 12.1%
1995年 10.3%
〔農業〕
黒人その他
1970年 3.9%
1975年 2.6%
1980年 1.8%
1995年 1.1%
白人
1970年 4.0%
1975年 3.6%
1980年 2.9%
1995年 2.7%
(注:U. S. Census Bureau,“Statistical Abstract”1981~96年度版より)
連邦政府が定めた貧困ライン以下の収入しか得ていない家族に属する人口は、全白人人口の11.2%、全黒人人口の29.3%であるが、貧困がとくに集中している18歳以下では、白人は16.2%、黒人は41.9%(1995)が貧困ライン以下にある。このような格差は失業率の格差によるところが大きい。失業率は白人4.7%、黒人10%で、16~19歳に限ると、白人17.2%、黒人39.1%(1996)と、いずれも2倍以上の格差がある。就業していても収入の人種格差がなお大きく、フルタイム労働における週給は中位レベルで白人494ドル、黒人383ドル(1995)であった。それは就業構造における人種格差を反映しており、前掲のデータにあるように、いわゆるホワイトカラー層に属するのは白人62%、黒人49%(1995)である。就学格差も歴然としており、25歳以上の人口のうち、4年制以上の大学修了者は白人24.0%、黒人13.2%(1995)であった。貧困は家庭崩壊の現象と重なっており、18歳以下人口に占める母子家庭の比率は白人18%、黒人52%(1995)、結婚外出産新生児は白人23.6%、黒人68.7%(1993)という状況にある。さらに、貧困や家庭崩壊は犯罪と結びつく傾向にあり、殺人事件による犠牲者の人口当りの割合は、黒人が白人の7倍にも達している(1989)。とくに黒人若年層における殺人件数は多く、逮捕された10代の殺人犯の比率は白人36%、黒人61%(1994)であった。連邦と州の刑務所人口は1980年代に倍加し、近年では100万人に達する勢いを示しているが、94年の人口当り黒人収監者の割合は白人の7倍に上る。1990年代初頭には、ニューヨーク市の20代黒人男性の4人に1人が監獄にいるか保釈中、あるいは執行猶予中であった。90年代後半に犯罪件数は減少し始めたが、人種格差は依然として大きい。
過密で不衛生な犯罪多発貧困地区が集中する大都市に居住しているのは、白人の22.4%、黒人の54.9%である。大都市の居住区は厳然と人種別に隔絶されており、黒人はとくに条件の悪い「黒人ゲットー(ブラック・ゲットー)」とよばれる犯罪多発貧困地区に事実上押し込められている。政治への発言権においても格差は歴然としている。1965年投票権法によって参政権を保障された黒人は、まもなく白人と同じ程度に選挙に参加するようになったが、有権者登録は70年代に入り減少し始め、近年では黒人ゲットーの住民は20%程度しか投票に参加しない事例が多い。これに対して郊外白人地域の投票率は一般に70%を超える。また、官職保有者(議員、行政府役職者など)に選出された黒人は急増し、92年には1万人を超えたものの、それは全当選者の2.3%にすぎなかった。
[上杉 忍]
合衆国「黒人問題」の起源
合衆国の「黒人問題」の起源は、黒人奴隷制プランテーション経営にある。16世紀以降、西ヨーロッパを中核として形成された資本主義的商品経済の膨張過程で、その外縁部(フロンティア)に組織されたプランテーション農業は、ヨーロッパ人による先住民社会の解体・排除を前提として、占拠された土地に、ヨーロッパ人の指導下に外部から資本と大量の労働力を導入して商品作物を栽培した。利用可能な土地が豊富に存在するこのフロンティアでは、「他人のため」に利潤を生み出せる労働力は、強制によってしか引き出されえない。それゆえに、プランテーションは外部から導入された労働者に労働を強制するための暴力機構とそれを支える文化を必要とする。プランテーションへの不自由労働集団の導入は、近代初期における世界的人口再配分の主要な部分を占めてきた。その結果、プランテーションは異なった文化をもつ人種、民族の大量接触の場となり、近代の人種・民族差別意識の主要な培養器となった。プランテーション制度がもっとも典型的に発展したのはアメリカ大陸の大西洋岸諸地域だが、西アフリカから連行された黒人奴隷がその労働力のおもな担い手であった。この地域では19世紀の奴隷制解体以後もプランテーション経営は小作制度などの形態で維持され、一部では中国人やインド人も導入されたが、全体としてはその主要な労働力はなお黒人であった。そして、奴隷制なき後、なおも強制労働制度を維持するための文化として、「人種偏見」が培養され定着することになった。
以上のようにプランテーションは、「人種偏見」を生み出す一般的基礎であったが、合衆国南部のプランテーション社会には、たとえばカリブ海域のプランテーション社会とは異なった特徴があった。南部社会では、白人人口が全体の3分の2を占め、かつ先住民社会が相対的に強固で、なお白人の膨張に抵抗し続けたため、白人支配層は黒人を抑え込み、プランテーション制度を維持するために、貧しい者を含めた白人全体を味方につけ、先住民と黒人の抵抗に備える必要があった。それゆえこの社会では「純潔」な白人としての自尊心が強調され、独特の「人種偏見」が形成されたのである。これに対してカリブ海域では、白人の比率がきわめて少なく、奴隷反乱と外国勢力の侵略から体制を維持するために、「混血」が順次体制に取り込まれ、植民地本国の軍隊の力が求められた。したがって、これらの地域の政治的独立はきわめて遅い。このような理由から、カリブ海域では「混血」が独自の社会勢力として存在し、人種差別のあり方にも合衆国南部との差異が生まれたのである。
[上杉 忍]
合衆国における人種隔離制度の確立
合衆国、とくに南部各地で、黒人を市民の地位から引きずり落とすために人種隔離を強制する制度が確立されたのは、1896年のプレッシー対ファーガソン裁判において連邦最高裁判所が「両人種を分離しても平等な施設を提供すれば憲法に違反しない」(隔離すれども平等separate but equal)という判決を下した世紀転換期のことである。この時期には、南北戦争後一時認められていた黒人男子の参政権が南部各州では事実上全面剥奪(はくだつ)され、また白人大衆の面前で法律に基づかずに黒人を「処刑」するリンチや、白人が黒人を襲う人種暴動が激発した。それは南北戦争以後、産業資本主義が急激な発展を遂げ、フロンティアの消滅と対外膨張の開始、国内の階級対立の激化という危機的な状況が深まった時期にあたっていた。そして、ちょうどこの時期に「白人の優越性、黒人の劣等性」を「論証」する「科学的」人種差別理論が、アメリカの権威ある知識人たちによって構築、宣伝され、合衆国の民衆の心に深く定着した。
この時代に始まる人種差別制度はジム・クロウ制度とよばれ、この差別制度は1960年代の黒人公民権運動がこれを打ち壊すまで続いた。この60年代は南部のプランテーション制度が近代的に再編、解体された時期にもあたっていた。すなわちジム・クロウ制度は、南北戦争後も黒人をプランテーション制度のなかに縛りつけておくための法的・社会的枠組みとして南部を中心に根を張ったのである。
[上杉 忍]
黒人問題の全国化
黒人がプランテーションを脱出して北部の大都市に職を得ることができるようになったのは、アメリカの基幹産業を担ってきたヨーロッパからの移民の流入が第一次世界大戦によって途絶し、北部産業資本が南部の黒人労働力を求めるようになったためであった。経営者たちは黒人を雇用するにあたって、白人労働者の人種差別意識に妥協し、あるいはこれを最大限に利用して労働者同士を対立させようとしたために、黒人は北部においても黒人に対してのみ許された「隔離労働市場」に閉じ込められた。また、大都市の居住区にはこの時代以後「黒人ゲットー」が次々と形成され、人種隔離社会が全米各地の大都市に広がった。すなわち、人種隔離制度は南北戦争後の南部プランテーション制度にそのおもな基礎を置いていたが、アメリカの産業資本主義社会はこれを自らの制度の中に取り込み、自らの体内で積極的に培養したのである。
第二次世界大戦後、南部プランテーションが再編・解体させられ、よりいっそう多くの黒人が大都市に移住するようになった。しかし、このころになると伝統的にヨーロッパ系移民の社会的・経済的上昇を保障してきた製造業などの基幹産業が、外国との競争に圧迫されて、都市中心部から郊外あるいは海外へ流出・移転しはじめた。そのため、都市中心部において学歴の低い黒人に提供されうる安定した雇用は激減し、不安定雇用、失業、社会保障への依存が黒人社会を慢性的にとらえるようになった。
[上杉 忍]
公民権運動の成果と課題
公民権運動は、1955年アラバマ州モンゴメリーでのバス・ボイコット運動に始まり、1964年公民権法と65年投票権法を成立させて、おもに南部各州における人種隔離制度=ジム・クロウ体制を打破した。それは、第二次世界大戦を反ファシズム戦争として積極的に戦った黒人たちの成果を基礎に、大戦後に成長してきた都市黒人中産階級によって指導され、アフリカの植民地独立運動にも励まされながら展開された運動であった。当時、「民主主義」の旗を掲げて冷戦を闘っていたアメリカ政府は、黒人たちの平等要求を公然とは無視できなかった。
多くの生命を犠牲にしながらも粘り強く闘われたこの運動によって、少なくとも人種差別は法律の上では不可能となり、人種差別を公然とは肯定できない文化的風土がアメリカに形成された。さらに黒人公民権運動の成果に励まされて、1970年代には、そのほかの非白人系アメリカ人の権利主張運動も高揚し、その過程で白人中産階級の文化や生活様式を絶対視する風潮が批判された。それぞれの集団が自らの文化に誇りをもち、多元的文化の平等な平和的共存を追求する世論もしだいに定着しはじめた。1964年公民権法に基づいた「結果の平等」を保障する政策として、これまで差別によって不利な状況におかれてきた被差別集団を積極的に教育機関や職場に受け入れるアファーマティブ・アクションが連邦政府の指導の下に行われた。その結果、黒人の一部が自由競争への参加を保障され、社会的・経済的地位の向上によって黒人ゲットーから脱出し始めた。
しかし、それは一部の黒人エリートの上昇への道を開いたに過ぎず、大部分の黒人はなおアメリカ社会の最底辺に滞留している。大都市中心部のほぼ人種的に隔離された居住区に押し込められ、不安定雇用、失業、社会保障への恒常的依存の下にある人々を近年では「アンダークラス」とよぶが、その大半は黒人である。エリートが脱出した後の黒人ゲットーでは、青少年はモデルとなる大人を失い、社会的孤立を深めている。ここでは、家族の解体が進み、教会も大衆の間での影響力を失い、社会の解体が進んでいる。権威ある専門家によって構成された「都市に関する1988年委員会」は「アメリカの中心部のいずこにも『静かな暴動』が存在している。失業・貧困・社会的無秩序、隔離・家庭崩壊・住宅と学校の劣悪化・犯罪はいっそう進行している」と報告した。
[上杉 忍]
今日の黒人問題
最後に、公民権運動以後の「黒人問題」をめぐる状況の変化について、その特徴のいくつかを列挙しておこう。
(1)1960年代後半以後、アジア系およびラテンアメリカ系の人々が大量に流入し、「黒人問題」は、「白人」対「黒人」の二項対立的図式のなかでとらえるのではなく、アメリカ全体の人種的な差別として問題にせねばならないことがはっきりしてきた。南部キリスト教指導会議などを通じて公民権運動を展開した黒人牧師のジェシー・ジャクソンJesse Louis Jackson(1941― )が、1988年大統領選挙に立候補した際には、さまざまな被差別集団による「虹の連合」をよびかけたが、これはそうした状況を意識しての戦術であった。また、ロドニー・キング事件(黒人のロドニー・キングに対するロス市警の警官による集団暴行事件)の評決が、明白な現場撮影の証拠があるにもかかわらず無罪となったことが引き金で起こった、史上最悪の都市暴動といわれた92年のロサンゼルス暴動(ロス暴動)では、黒人だけでなくメキシコ人や韓国人が巻き込まれた。これはほかの被差別少数集団との関係をも視野に入れて「黒人問題」への対策がたてられなければならないことを示している。
(2)1970年代以後の急激な産業構造の転換(製造業の転出、ハイテク化)によってもっとも深刻な打撃を被った「アンダークラス」の黒人と、1964年公民権法以後改善された有利な条件を生かして、社会的・経済的上昇の機会を得て黒人ゲットーを脱出した黒人エリートとのギャップが拡大した。その結果、黒人運動で指導的役割を担ってきた中産階級の黒人が、アンダークラスの黒人大衆を把握できない状態が広がっている。
(3)1980年代以降の経済改革では、1930年代以来の社会福祉政策への批判を背景として、「結果の平等」を実現しようとするアファーマティブ・アクションは「個々人の平等で自由な競争」というアメリカの伝統的理念に反する「逆差別」だ、とする批判が支持を集め、この政策は解消への方向に向かい始めた。カリフォルニア州では、96年11月の住民投票でアファーマティブ・アクションの撤廃法が成立し、97年8月に発効した。伝統的な自由競争万能の原理が強調され、社会的弱者は保護を失い、厳しい状況に追い込まれている。
(4)1980年代以降、黒人の相対的地位は政府の統計でもむしろ低下しつつあり、実際には人種的な隔離状態も解消されるどころか逆に強まっている、と日常的に感じている黒人が増えている。現に初等中等教育における人種統合は停滞し、むしろ実質的には人種隔離が進み、人種間格差は拡大しているのが現状である。こうした黒人の間では、絶望感と白人に対する敵意が強まり、分離主義を主張するグループが影響力を強める傾向もみられる。
[上杉 忍]
『本田創造著『アメリカ社会と黒人』(1972・大月書店)』▽『大塚秀之著『アメリカ合衆国史と人種差別』(1982・大月書店)』▽『本田創造著『アメリカ黒人の歴史』新版(岩波新書)』▽『J・H・フランクリン著、本田創造監訳『人種と歴史』(1993・岩波書店)』▽『上杉忍著『黒人公民権運動への道』(1998・岩波書店)』