名木村(読み)なぎむら

日本歴史地名大系 「名木村」の解説

名木村
なぎむら

[現在地名]下総町名木

冬父とぶ村・中里なかざと村の東に位置する。中世神崎こうざき庄に属し、至徳二年(一三八五)神崎庄所課祭礼物注文写(香取文書)に「八石五升 南城 上坊」、また「かうさきの庄の御租石の事」という事書のある欠年文書(香取文書纂)に「八石五升 南城分」とみえる。また応永三三年(一四二六)四月一〇日の大須賀朝信証状(大慈恩寺文書)大慈恩だいじおん(現大栄町)当知行領の一所として「南城」、同年八月の大慈恩寺寺領注進状案(同文書)に「南城内弐丁」などとみえる。

名木村
なぎむら

[現在地名]いわき市四倉町名木よつくらまちなぎ

原高野はらごや川沿岸にあり、東は狐塚きつねづか村、南西北神谷きたかべや村、北は長友ながとも村。当村や長友村辺りが中世の好島東よしまひがし庄の中枢域であったといわれる。建長五年(一二五三)七月一〇日の好島庄政所差文案(飯野八幡宮文書)によれば、「一門 奈木」が飯野いいの八幡宮の経所造営に際し課されている。文永一一年(一二七四)八月六日の八幡宮鳥居作料等配分状案(同文書)に「三百文 大野 加奈木定」とみえ、好島東庄の負担する作料銭八〇〇文のうち三〇〇文を大野おおのとともに負担している。

磐城郡に属した。近世領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報