呉庭庄(読み)くれはのしよう

日本歴史地名大系 「呉庭庄」の解説

呉庭庄
くれはのしよう

池田宇保うほ町を含む一帯にあった庄園。宇保町の北西むろ町に呉服くれは神社がある。宇保町・室町ともに近世には池田村のうち。平安時代中期、倭漢系坂上氏の枝氏である河内土師氏がこの地に移住して開発領主となり、呉庭とよばれるようになったという(池田市史)。坂上系図の正任の項に「字土師太郎」「始住摂津国、豊島郡呉庭開発領主」とあり、その父親維正の項には「河内国土師貫首」とある。正任の嫡流庶流ともにその後当地に住し、嫡流は「呉庭総社天王之神主」、庶流は善城ぜんじよう寺俗別当を世襲して南北朝末期に至っている(坂上系図)

庄名の初見は長寛三年(一一六五)三月日付の法華堂領呉庭庄解(陽明文庫蔵「兵範記」仁安二年秋巻裏文書)。この解文は猪名いな川を挟んで西方に位置する山本やまもと(現兵庫県宝塚市)下司永仁との係争に関し関白藤原基実に訴えたもので、「院御願法華堂御領呉庭御庄解」とある。院御願法華堂は後白河院御願法住ほうじゆう寺法華堂(現京都市東山区)のことであろう。これにより山本庄内一町八反がかつて修理大夫某に弁進されたこと(修理大夫某は当庄の旧領主か)、この一町八反は多年呉庭庄住人が耕作してきたため「呉庭庄領」とよばれるに至っていることなどが知られる。係争の原因は下司永仁がこの地に濫妨を加えたため、山本庄領家の右大臣藤原公能や藤原忠通に訴え、一町八反が山本庄に含まれないことを確認した下文を得たが、それでもなお永仁の濫妨が止まないことにあった。文脈上明らかとはいいがたいが、係争中に当庄は法華堂に寄進されたようである。この一町八反については年月日未詳(後欠)某書状(陽明文庫蔵「兵範記」仁安二年秋巻裏文書)にもみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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