和田浦(読み)わだうら

日本歴史地名大系 「和田浦」の解説

和田浦
わだうら

[現在地名]美浜町和田

西にし(三二八・七メートル)の東南麓に広がる。東は吉原よしわら浦、西は三尾みお浦、北は小池おいけ(現日高町)。枝郷として入山にゆうやま村があった(続風土記)。西山麓の美浜砂丘上から三基の古墳が発見されており、その一号墳からは須恵器提瓶が出土。慶長検地高目録には「和田村」とあり高一千四九一石余、小物成一・六六七石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には「和田入山」とあり、田畑一三九町九反余で、高一千五一二石余、家数三二七で内訳は本役七〇、半役一四二、無役一〇四、舟大工・大庄屋・杖突各一、庄屋二、年寄四、ありき二。ほかに寺三、宮四。人数一千二六七、牛一一七、馬三九、舟数三一(いさば五・漁船二六)、網数一三(地引一一・磯網一・まかせ一)


和田浦
わだうら

大山おやま嶽の南西大山の南の和多浦に比定される。対馬でいう内海の入り曲った地勢に由来する呼称である。長く無人の地であるが、数ヵ所に古墳がみられ、中世の営みの跡を示す陶片が散布する。中世は与良よら郡のうち。嘉暦三年(一三二八)対馬守護少弐妙恵(貞経)が当地を拠点とすると考えられる大山宮内左衛門入道跡の相続を子息の津田次郎に認めており、従来どおり公事を負担すべきことを命じている(同年一二月二八日「少弐妙恵書下」与良郷宗家判物写、以下断りのない限り同判物写)。永和二年(一三七六)わたの浦」の「こうれい(恒例でなければ高麗であろう)の公事が大山左衛門五郎に宛行われた(同年一〇月一六日「宗澄茂(隆茂)施行状」対馬庄司文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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