日本歴史地名大系 「大山村」の解説
大山村
おおやまむら
正保四年(一六四七)藩主酒井忠勝が没するとその子杢之助(忠解)に一万石が分知され(大山藩)、慶安二年(一六四九)には所領の村が決定、当村に屋敷が置かれ、寛文四年(一六六四)忠解が初入部した。所領は当村・友江村・
寛永一九年には
大山村
うやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
- 千葉県:成田市
- 大山村
大山村
おやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
たいやまむら
大山村
おおやまむら
- 茨城県:古河市
- 大山村
利根川北岸に位置。中世までは奥州への街道筋にあたっていたと思われるが、近世に日光街道が
縄文土器片や土師器片の散布、文和三年(一三五四)銘の板碑の出土に開発の古さをうかがえるが、初めて地名がみられるのは「喜連川家料所記」中の天正二年(一五七四)の芳春院周興・昌寿連署書状写の遠山氏に給された「大山」である。大山は、西の大字中田の小字
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
西と南は
「国郡志下調書出帳」に「農余浮儲之業当村ニ者無御座候、尤作間ニ炭木等者三次江出し候者御座候、此節香淀村御鑪御座候ニ付炭抔専焼入申候、冬春之内ハ紙職等仕候者拾五人位御座候而、婦人之義ハ布木綿少々仕候ヘ共着用而已売用ニ不仕候」とあり、天保三年(一八三二)村庄屋から割庄屋宛の文書(三上家文書)にも水田の「七歩方晩田所ニ而兎角不熟畑も土地悪敷田畑共に麦作熊子雑穀出来兼、毎年飯用行足不申、百姓共作間渡世炭木抔ニ而其日儲ニ相凌候もの過半余御座候」と記す。
大山村
おおやまむら
慶長検地郷村帳に高一八二・六七石「大山村」とみえ、土目録でも同高で内訳は、田方一五五石余、畑方二七石余。
若狭との国境に近く、伝承によれば天文二年(一五三三)若狭から移ってきた人々が初めて住みつき、
大山村
おおやまむら
- 山口県:岩国市
- 大山村
山に囲まれているが、平地もあり水利もよく、慶安四年の村高三七〇石余、うち田高二九五石余、畠高四〇石余、楮高三四石余であった。その後楮高が少し減少して、享保一一年(一七二六)の村高三六四石、戸数七〇軒、人口三四九人、牛四九頭、馬五頭(享保増補村記)。
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
大山村
おおやまむら
- 愛知県:小牧市
- 大山村
大山村
おおやまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報