大山村(読み)おおやまむら

日本歴史地名大系 「大山村」の解説

大山村
おおやまむら

[現在地名]鶴岡市大山・大山一―三丁目

高館たかだて山・八森はちもり山の東麓にあり、北は馬町うままち村、東は友江ともえ村。南で大山川(八沢川)大戸おおと川が合流し、大山川となって北へ流れる。中世には大浦おおらとよばれ、天文(一五三二―五五)初年大浦城に武藤氏が入城して以後、元和八年(一六二二)まで武藤氏・上杉氏・最上氏の勢力下にあった同城の城下となった。慶長八年(一六〇三)大山と改められたという(「菅原政次書留」旧山形県史所収文書)。しかし文禄三年定納員数目録(上杉家文書)にはすでに「大山衆」とあり、公称とは別に大山が通称されていたものと思われる。元和八年最上氏改易により庄内藩領となり、大浦城破却後は町奉行が置かれた(大泉紀年)。元和八年の酒井氏知行目録では前田面まえたもととみえ高一千一五七石余、前田面のうちとして境興屋二八石余。牛介分二九六石余、志摩分七三石余、土佐分三〇石余、美濃分一五四石余の合計一千七四〇石余とある。寛永元年庄内高辻帳では大山前田面高一千九八八石余・同所城廻二四一石余とあって馬町村を含み、ほかに杉尾明神領(現椙尾神社、元和八年「庄内寺社領目録」では高一七〇石余)があった。寛永一九年(一六四二)の大山検地帳改之新帳(羽根田文書)では馬町村分を含む高二千四九六石余。正保郷帳でも馬町村などを含み、田高二千三〇〇石余・畑高九五一石余、社領一二〇石余、はえ山・新田があり旱損。

正保四年(一六四七)藩主酒井忠勝が没するとその子杢之助(忠解)に一万石が分知され(大山藩)、慶安二年(一六四九)には所領の村が決定、当村に屋敷が置かれ、寛文四年(一六六四)忠解が初入部した。所領は当村・友江村・下小中しもこなか村、尾花おばな村・天神堂てんじんどう(現東田川郡三川町)など大山川流域の二一ヵ村・一万石で、ほかに丹波興屋たんばこうや村・論田ろんでん村内の家中・足軽屋敷永引分六六石余が加えられた(大泉紀年)。この大山藩成立のとき大山村の一町であった馬町などが分離され、庄内藩領の馬町村となった。寛文八年忠解が没すると嗣子がないため改易となり、翌九年大山藩領は幕府領に編入された。幕府領代官支配の時は当村に陣屋が置かれ、元治元年(一八六四)旧大山藩領が庄内藩領に復すると大山組大庄屋の居村となった。

寛永一九年にはほん町・あら町・町・塗師ぬりし町・鍛冶かじ町・銅屋どうや町・かた町・染屋そめや町・桶屋おけや町・番匠ばんしよう町・曲師まげし町・ななッ町・しん町・くるめきばし小路こうじ門前もんぜんなか町・しも町・正法寺門前しようぼうじもんぜんてら町・みやしたに分れていた(前掲検地帳改之新帳)

大山村
うやまむら

[現在地名]宜野湾市大山おおやま・大山一―七丁目・真志喜ましき一丁目

伊佐いさ村の南西にある。西は東シナ海に面し、集落は段丘上に位置する。初め浦添うらしー間切に属し、絵図郷村帳にみえる同間切「しやな村」、琉球国高究帳にみえる「謝名村」が当村・真志喜ましち村・大謝名おおじやな村にあたるとみられる。古琉球の謝名じやな村が一七世紀中頃までに当村と大謝名村に分村したと考えられる。当村の名は「琉球国由来記」には大山とみえるが、当時用候表で謝名具志川じやなぐしかわ、「琉球国旧記」には具志川とみえ、近世はこの名称でほぼ一貫している。「琉球藩雑記」でも謝名具志川村とみえ、一八八〇年(明治一三年)の県統計概表に至り大山村と改称された。「琉球国由来記」段階では大山村が公式名称となっていたと考えられるが、「琉球国旧記」「琉球藩雑記」などは旧村名を踏襲して記載している。

大山村
おおやまむら

[現在地名]上三川町大山

川の右岸低地と宇都宮西台地の縁部に位置し、東境の一部を田川が南流する。北部と南部には幅二〇〇―三〇〇メートルの浸食谷が田川低地から湾入し、北は下神主しもこうぬし村。天長元年(八二四)の薬師寺戒壇縁起(下野国誌)に薬師寺(現南河内町)は「大山郷」にありと記され、「日光山勝道上人絵巻縁起」に「下野国大山庄薬師寺」とあることから、当地から薬師寺にかけての一帯が大山郷、または大山庄と称されていたという(上三川町史)。近世初めは宇都宮藩領。慶安郷帳に村名がみえ、田高二五六石余・畑高七〇石余。元禄郷帳では旗本小出・真瀬(曲直瀬か)の二給。改革組合村では幕府領と旗本小出・曲直瀬の三給で、幕末に至る。

大山村
おおやまむら

[現在地名]桂村阿波山あわやま

那珂川の右岸の河岸段丘上に位置し、北は下穴沢しもあなざわ村。那須街道が那珂川と並行して通り、桂川が西から南へ村内で迂回して流れる。

康安二年(一三六二)佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)には「福王丸分 大山氏、一、那珂西高久半分大山村」とみえる。「水府志料」の大山村の項には「粟郷上下ある事今詳ならず。然れどもこの村に阿波山上の神社あり。又阿弥陀寺薬師堂鰐口に、天文二十二、那珂西郡上粟宮原山寄進大畠道意とあり。是によるに、上粟とは即大山なる事あきらかなり。いつの比より大山といゝしやしらず」と記される。

大山村
おおやまむら

[現在地名]富加町大山

津保つぼ川左岸の河岸段丘上に位置し、飛騨への街道に沿う。北は川小牧かわこまき村、東と南は滝田たきだ村、西は大平賀おおひらが村。「和名抄」の武藝むげ郡九郷の一つとして大山郷がみえる。室町期には実相じつそう(現京都市左京区)の所領、寛正二年(一四六一)一一月二八日の実相院僧正増運宛の足利義政御教書(実相院文書)に「志津野 塩生 太山 小牧」とある。その後斎藤新五の所領となり、永禄八年(一五六五)一一月一日の斎藤新五宛織田信長充行状写(備藩国臣古証文)に「四拾八貫文 大山」とある。

大山村
おおやまむら

[現在地名]額田町南大須みなみおおす

おと川支流の大高味おおたかみ川右岸より北の山あいに入る里道の奥に集落が立地する山間の村。北東が大林おおばやし村、北西は法味ほうみ村・大河おおがわ村、南は南須山みなみすやま村、古部こぶ(現岡崎市)、北は村と各々山で接する。中世、中山なかやま庄に属する。土村の支村といわれる。「三河国二葉松」によると、土村は中世末期天野氏一門の三郎左衛門領であり、当村も同じと考えられる。分村時期は不明であるが、慶長検地帳は土村のうち、大山分とある(岡崎市史)

大山村
おおやまむら

[現在地名]成田市大山

小菅こすげ村の西に位置し、南は山之作やまのさく村。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一八六石余、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。なお寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図にみえる大江は大山の誤記か。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば、小物成として夫役永五四五文・山銭永五九一文があった。年貢米は印旛いんば沼東岸の北須賀きたすか河岸に出した。同年の大風雨では大雹が降って田畑を荒すなど凶作となり、また民家二軒が山崩れでつぶれるなどの大きな被害を出した。

大山村
おやまむら

[現在地名]美津島町大山

大船越おおふなこし村の北、内浅海うちあそうの東辺にあり、東に大山嶽(浅茅山)がそびえる。中世は与良よら郡のうち。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「おやま」とみえる。寛文二年(一六六二)の検地帳に与良郡小山村とあり、高二三石余。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では与良郷大山村として田畠木庭物成三〇石余、家数二二・社一・寺一、人数九五・給人三・公役人八・肝入一・猟師四、牛九、船六で、寺は禅宗の横国山宝積ほうしやく(現曹洞宗)

大山村
おおやまむら

[現在地名]大分市八幡やはた 下八幡しもやはた東八幡ひがしやはた大久保おおくぼ

生石いくし村の西、はらい川左岸の山間にあり、同村から柞原ゆすはら八幡宮参詣道に続く豊前道に沿う。天長七年(八三〇)同宮を開いた金亀の創建とも伝える大山たいさん寺があり、江戸時代の由原八幡宮絵図(柞原八幡宮蔵)によると同宮の観音堂や社家が当村にあるなど、同宮との深い関係が知られる。正保郷帳に村名がみえ田高二三石余・畑高二六石余、笠和かさわ郷に所属。

大山村
たいやまむら

[現在地名]邑久町福中ふくなか

現邑久町の西部、吉井川と干田ほした川に挟まれて立地。豆田まめだ村の南にある。正応(一二八八―九三)頃より当地大山や千手せんずなどの支配をめぐり、鹿忍かしの庄下司藤井惟景と豊原とよはら庄雑掌とで争い、長期におよぶ幕府での訴訟の結果、元亨四年(一三二四)四月一九日の和与状(案、安仁神社文書)で大山・千手は豊原庄本所進止の地とされ、海上以下得分は折半となっている。

大山村
おおやまむら

[現在地名]古河市大山

利根川北岸に位置。中世までは奥州への街道筋にあたっていたと思われるが、近世に日光街道が栗橋くりはし(現埼玉県北葛飾郡栗橋町)から中田なかだ町へ直通し、また赤堀あかぼり(現在の利根川の古河市中田から猿島郡境町の間)の完成によって、地続きであった現猿島さしま五霞ごか川妻かわつま方面と分断されたため、主要街道から外れてしまった。

縄文土器片や土師器片の散布、文和三年(一三五四)銘の板碑の出土に開発の古さをうかがえるが、初めて地名がみられるのは「喜連川家料所記」中の天正二年(一五七四)の芳春院周興・昌寿連署書状写の遠山氏に給された「大山」である。大山は、西の大字中田の小字小山こやまに対する地名で、小字に本村ほむらが残るから、ここが最も古く開けた所であったに違いない。

大山村
おおやまむら

[現在地名]杷木町大山

穂坂ほさか村の北、赤谷あかだに川から分れた大山川一帯に位置する。東は豊後国日田郡中島なかしま(現大分県日田市)など。小早川時代の指出前之帳では大山村の田三町九反余(分米四三石余)・畠一町七反余(分大豆七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一五七石余、うち大豆四八石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一七一石余・反別一七町三反余、家数二九・人数一七三(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政六年(一七九四)の家数四九・人数二五二、馬八・牛二〇(「郷村帳写」井手家文書)

大山村
おおやまむら

[現在地名]下部町大山

大磯小磯おおいそこいそ村の北西、ひるヶ岳南西麓の山間に立地する。地内を樋田といだ(久保川)に流入する大山川が北西流する。集落は神戸ごうど山・大日向おおひなた山山域の山頂と山腹の上大山・下大山にある。慶長古高帳に大山とみえ高一三石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高一六石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数一四・人数四七、馬二(甲斐国志)。当村はもと居平いだらい(古屋敷)と称する地にあったが、天明年間(一七八一―八九)の大地震のため現在地に移ったと伝えられる(下部町誌)

大山村
おおやまむら

[現在地名]作木村大山

西と南は香淀こうよど村に接し、北は下布野しもふの、西は日下ひげの両村(ともに現布野村)。中世の別作べつさく村が大山・香淀・門田もんでの三村に分れて成立した村(国郡志下調書出帳)で、元和五年(一六一九)の備後国知行帳に大山村として高二五八・四八九石を記す。

「国郡志下調書出帳」に「農余浮儲之業当村ニ無御座候、尤作間ニ炭木等三次出し候者御座候、此節香淀村御鑪御座候ニ付炭抔専焼入申候、冬春之内ハ紙職等仕候者拾五人位御座候、婦人之義ハ布木綿少々仕候ヘ共着用已売用ニ不仕候」とあり、天保三年(一八三二)村庄屋から割庄屋宛の文書(三上家文書)にも水田の「七歩方晩田所ニ兎角不熟畑も土地悪敷田畑共に麦作熊子雑穀出来兼、毎年飯用行足不申、百姓共作間渡世炭木抔ニ其日儲ニ相凌候もの過半余御座候」と記す。

大山村
おおやまむら

[現在地名]舞鶴市字大山

河辺かわなべ谷から田井たい村・成生なりう村に越える大山峠付近に位置し、地形は大道だいどう山・そら山に続き割合に平坦である。

慶長検地郷村帳に高一八二・六七石「大山村」とみえ、土目録でも同高で内訳は、田方一五五石余、畑方二七石余。

若狭との国境に近く、伝承によれば天文二年(一五三三)若狭から移ってきた人々が初めて住みつき、上字かみじに二戸、岡名字おかなじに二戸、中字なかじに四戸が各々家を建て、山林原野を区切り耕地を開いていった。次いで永禄二年(一五五九)、慶長一九年(一六一四)に第二次、第三次の移住者が入り、戸数は三〇を数えるようになったという。いま江正こうせい(臨済宗東福寺派)境内に残る石塔(天和二年銘)はその頃に立てられたものである。

大山村
おおやまむら

[現在地名]岩国市大字大山

蓮華れんげ山の北東麓、入野いりの村の西、伊房いぶさ村の東にあり、南は玖珂本郷くがほんごう(現玖珂郡玖珂町)。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村。村名は慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に出る。村名由来は河内・玖珂境の高山、蓮華山の麓にあることから大山というと「玖珂郡志」にある。

山に囲まれているが、平地もあり水利もよく、慶安四年の村高三七〇石余、うち田高二九五石余、畠高四〇石余、楮高三四石余であった。その後楮高が少し減少して、享保一一年(一七二六)の村高三六四石、戸数七〇軒、人口三四九人、牛四九頭、馬五頭(享保増補村記)

大山村
おおやまむら

[現在地名]美浦村大山

馬掛まがき村の東南に位置し、台地を背に霞ヶ浦に突出す。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は六四九石余。幕末は天領一二八石余、旗本飯室氏領三四〇石余、久保氏領二五九石余(各村旧高簿)。江戸後期に新田開発が進み、幕末までに大山新田六五石余が成立した(各村旧高簿)。漁業も行われ、慶安三年(一六五〇)七月晦日付の霞浦四拾八津連判掟書(土浦市立図書館蔵)にある連判の小津頭には「大山村 五郎右衛門」の名前がみえ、元禄五年(一六九二)四月一三日の霞ケ浦四十八津連判訴状案(舟串家文書)に「御代官所・久保万之助殿・飯室与兵衛殿 大山村惣五郎」とみえる。

大山村
おおやまむら

[現在地名]山川町大山

頴娃えい郡に所属。揖宿郡鳴川なりかわ村の西に位置し、南は岡児おかちよみず村。中央に辻之つじの(二二七・六メートル)がそびえる。かつては頴娃郷に所属していたが、正保四年(一六四七)に山川郷へ編入された(文政七年「頴娃郷旧跡帳」県立図書館蔵)。なお元禄国絵図では高付された大山村のほかに無高の「大山村之内児ヶ水村」がみえることから、郷帳類などにみえる大山村は岡児ヶ水村を含んでいたと考えられる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高一千六二七石余。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高九一四石余。

大山村
おおやまむら

[現在地名]熊野川町大山

鎌塚かまづか村の東北、熊野街道中辺路(大雲取越)沿いに位置する。慶長検地高目録によると村高一三〇石余、小物成七・一三石。大山組に属し、和歌山藩新宮領。近世後期の「新宮領分見聞記」に家数二六とあり、「続風土記」によれば、小口こぐち川南流(現小口川)沿いに人家が一〇軒ばかりあった。

大山村
おおやまむら

[現在地名]姶良町大山

南流する山田やまだ川の東岸に位置し、西は下名しもみよう村・帖佐ちようさ深水ふかみず村。江戸時代初期は帖佐郷に属したが、のち山田郷創設の際に同郷所属となる。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、帖佐西ちようささい郷の公田一四三町五段のうちに「大山十一丁九段大」がみえ、貢進田五段を除いた定田一一町四段半で一丈一尺四寸六分の石築地役を負担した。

大山村
おおやまむら

[現在地名]守谷町大山新田おおやましんでん

鬼怒きぬ川湾曲部の南に所在。西は板戸井いたどい村。元禄郷帳に「大木村之枝郷」の注があり、江戸初期には大木おおき村に含まれていたと考えられる。「北相馬郡志」は安永六年(一七七七)に大山新田と改称したとするが、天保郷帳には「大木村枝郷大山村」とみえている。「各村旧高簿」には大山新田とあり、幕末には徳川三卿の田安家領で村高一〇四・四五石。村域に「かなくそ山」と称する約三アールの山林があるが、寛永年間(一六二四―四四)の鬼怒川新河道掘削の折に使用不能になった金具などの捨場であったと伝えられる。

大山村
おおやまむら

[現在地名]丹後町大山

三宅みやけ村の北方、竹野川下流左岸に位置する。西方にたか山を負い、東方は竹野川沿いの広い水田が開ける。村内を間人街道が通る。

中世末の丹後国御檀家帳に「大山の里 家廿斗」とみえる。近世に入り慶長検地郷村帳に高二九一・四三石「大山村」と出るが、延宝九年(一六八一)の延高で四二三石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、翌年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領、宝暦一三年(一七六三)但馬出石藩領、天保六年(一八三五)幕府領と変遷。

大山村
おおやまむら

[現在地名]小牧市大山

大草おおくさ村の北にある。建武二年(一三三五)の雑訴決断所牒(円覚寺文書)によれば「篠木庄内大山寺」とあり、中世、篠木しのき庄に属していた。天保の村絵図をみると、中央を明知あけち村道が通る。「徇行記」によれば、概高三二四石余のうち三〇二石が藩士六人の給知。田一八町五反二畝余・畑二町九反三畝余、「高ニ準シテ戸口多ク佃力足レリ、又農隙ニハ薪ヲ採小牧宿ヘ売出スト也」とある。

大山村
おおやまむら

[現在地名]八千代町東大山ひがしおおやま

やま川北岸に所在。南は新地しんち村。古くは鬼怒きぬ川中流の乱流地帯に属する沖積地水田地帯。

「各村旧高簿」によれば幕末には旗本坂部貞之允の知行地一九四・三石と京極丹後守の知行地一二四・六五三石の相給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報