ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「啓民可汗」の意味・わかりやすい解説
啓民可汗
けいみんかがん
Qi-min Ke-han; Ch`i-min K`o-han
[没]609
東突厥のカガン (在位?~609) 。初め突利可汗と称した。6世紀末に,突厥は大可汗の都藍 (とらん) のほかに,西方に達頭,北方に突利の2可汗がいて対立。隋はこれらを離間するため,突利に公主を降嫁し,南に移して啓民可汗の号を授け,オルドス内部に遊牧地を与えた。都藍可汗が部下に殺されると (599) ,達頭可汗は独立して北辺に侵入したが,啓民は隋軍とともにこれを攻め,その結果,達頭は吐谷渾 (とよくこん) に逃亡 (603) 。その民衆はすべて啓民に降伏し,啓民はゴビ砂漠の南方に居住し,モンゴル高原の諸族を支配した。
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