6~8世紀に北アジアを中心とし中央アジアをも支配したトルコ系部族およびそれを中心とする遊牧部族連合国家の名称。呼称はチュルクTürkの音訳で,〈とっけつ〉とも呼ばれる。その君主は可汗またはハガン(カガン)Qaghanと呼ばれる。その下に小可汗(小ハガン),葉護(ヤブグ)などの諸侯がいて,支配階層を形成した。アルタイ山脈の南西麓にいた阿史那氏の族長土門(チュメンTümän)はジュンガリアの鉄勒諸部を服属させたのち,552年に柔然を倒して伊利(イルリグIllig)可汗(ブミンBumïn可汗)と称し,モンゴリアの遊牧騎馬民を統合する一方,弟の室点蜜(しつてんみつ)(イステミIstämi可汗,ビザンティン史料のシルジブロスSilziboulosまたはディザブロスDizaboulos)は,エフタルを滅ぼして(567)ソグディアナを手中にし,天山山脈中のユルドゥズ渓谷を本拠とする西面可汗として中央アジアを掌握した。土門の子,木杆(ムカン)可汗のとき柔然を滅亡させ(555),ついで吐谷渾(とよくこん),契丹,キルギスを併せ,ユチュケン山を本拠として発展をとげた。オアシス地帯と東西通商ルートを抑えた西面可汗の勢力にくらべると,モンゴリアの突厥は大可汗のほかに小可汗が分立し不安定であった。
583年には西面可汗が独立して西突厥といわれ,のち射匱(しやき)可汗,トン・ヤブグ・ハガン(統葉護可汗)のころ最盛期を迎えた。西突厥は単に〈十姓〉〈十箭〉〈オン・オクOn Oq〉とも呼ばれ,それがイリ(伊犂)・天山北麓方面と天山西方方面とに分かれていたという。一方,東突厥の沙鉢略(イシバラIshbara)可汗(在位581-587)は隋の臣を称し,さらにモンゴリアやジュンガリアには鉄勒諸部が一時台頭した。隋末唐初の混乱期に乗じた東突厥は再び勢を得たが,ソグド人や中国人の重用をめぐる同族間の内紛,天災,鉄勒諸部の独立とその唐との連合により,630年に瓦解した。これまでをふつう突厥第一可汗(帝)国と呼ぶ。これ以後,突厥,ついで鉄勒諸部は巧みな離間政策に基づく唐の間接(羈縻(きび))支配を受けることになり,唐の勢力は7世紀半ばには中央アジアまで及んだ。この方面では西突厥十部の中から,7世紀末に突騎施(トゥルギシュ)が独立し,8世紀初頭に西突厥は滅び,唐の支配も天山東部まで後退した。
7世紀末,唐支配下の東突厥の間に自立の気運が高まり,682年,阿史那氏の骨咄禄(クトルクQutlugh)が陰山山脈に拠って中国北辺の唐勢力を破り,かつての本拠地ユチュケン山を回復して,北方鉄勒諸部を討って頡跌利施(イルティリシュIltirish)可汗(在位682-691)を称した。これ以後を突厥第二可汗(帝)国と呼ぶ。頡跌利施可汗の弟,黙啜(カプガンQapghan)可汗時代に,東は契丹,北はキルギス,西はビシュバリクのバスミルおよびイルティシュ川方面のトゥルギシュを討ち,さらに頡跌利施可汗の子ビルゲ・ハガンが直系を復活して弟の闕特勤(キョル・テギンKöl Tegin。685-731)とともに,父の代からの功臣トニユククTonyuquq(阿史徳元珍)の助言を得ながら遊牧騎馬国家の復興を成し遂げた。彼らの功績は突厥碑文に残されている。しかしビルゲ・ハガン,キョル・テギン兄弟の死後1代おいて即位した登利(テングリTängri)可汗は,唐の玄宗皇帝を天可汗と呼んで,実質的にこれに臣従するなど国勢は衰え,内紛も続いた。こうしたおりにバスミル族,カルルクQarluq族とともに反乱をおこしたウイグル族の長,骨力裴羅(クトルク・ボイラQutlugh Boyla)が744年に可汗を称するにいたって突厥の国家は崩壊した。
執筆者:梅村 坦
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「とっくつ」とも読む。6世紀の中ごろからほぼ200年間、モンゴル高原を中心に活躍し、その間、100年余り中央アジアを支配したトルコ民族と、その国名。Türkの複数形Türkütの音訳であるといわれてきたが、最近では、Türkを音写したものであるという説が有力である。初め、鉄勒(てつろく)の一部族としてアルタイ山脈方面で柔然(じゅうぜん)に服属していたが、その一氏族阿史那(あしな)氏の族長土門(テュメン)(万人長の意)が、柔然、鉄勒を破って独立し、イリク・ハガン(国家を支配する可汗の意)と称した(552)。そのころから、彼の弟のイステミ・ハガン(ディザブロス)は西方へ進出し、3代目のムカン・ハガンの治世中に、ササン朝ペルシアと協力してエフタルを滅ぼした。この結果、突厥の勢力は東は満州から西は中央アジアに及んだが、同族間の争いのため、その領域は583年東西に分裂し、東突厥がモンゴル高原を、西突厥が中央アジアを支配するに至った。
東突厥は、隋(ずい)末唐初の中国内部の混乱に乗じて中央集権化を図り、その勢力は強大になったが、唐の攻撃と、支配下の鉄勒諸部族の独立とのために滅亡し(630)、唐の間接支配を受けた。しかし、682年に独立して、ふたたびモンゴル高原に建国し、カプガン・ハガン、ビルゲ・ハガン(賢明な可汗の意)などが出て、中央アジアへも遠征したが、またもや同族間の争いのため衰え、鉄勒の一部族ウイグルに滅ぼされた(744)。630年以前を突厥第一帝国、682年以後を第二帝国とよぶ。
西突厥は、ビザンティン帝国と結んでササン朝ペルシアを討ったこともあるが、両部に分かれて互いに争い、唐はこの間に伊州(ハミ)、西州(トゥルファン)などの州県を置いた。その後一時統一されたが、唐はこれを討ち(657)、2人のハガンをたてて統制した。7世紀末に突騎施(トゥルギシュ)が興ってこの2ハガンを追放したため、西突厥は滅亡した。
突厥の国家はイルilとよばれ、ハガンの下に小ハガン、ヤクブ、シャドなどの諸侯がいて、各地に一種の封建領をもち、領内の諸部族の統治にあたった。これらはベグと総称され、支配階級を構成した。一般民衆はブドゥンとよばれ、また主としてベグたちは家内奴隷を所有していた。原始的なシャーマニズムが一般に信ぜられていたが、仏教が一時、ハガンを中心とする上層階級で行われた。
[護 雅夫]
『護雅夫著『古代トルコ民族史研究Ⅰ』(1967・山川出版社)』▽『護雅夫著『古代遊牧帝国』(中公新書)』
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552~744
「とっくつ」ともいう。テュルク(Türk, Türük)の漢字音写。モンゴリア,中央アジアに建てられたトルコ族の国家。支配氏族は阿史那(あしな)氏で,狼を始祖とする説話を持つ。アルタイ山脈の西南から興って柔然(じゅうぜん)を滅ぼしたが,内紛と隋の離間政策のため東西に分裂した(583年)。東突厥はウチュケン山(ハンガイ山脈地域)とオルホン川流域を本拠としてモンゴリアを支配して強盛を誇り,唐もその建国初期には援助をうるほどであったが,唐の征討を受けて瓦解した(630年,以上突厥第一可汗(カガン)国)。主に内モンゴルで唐の羈縻(きび)支配を受けていた東突厥は,約50年後に復興して(682年),再びモンゴリアを支配した。特にビルゲ・カガンは,弟のキョル・テギン,名相トゥニュククに助けられ,唐と友好関係を保ったが,その死後内紛が起こりウイグルに滅ぼされた(突厥第二可汗国)。西突厥は中央アジアを支配したが,両部に分裂して互いに争い,唐はこの間に,伊州(哈密(ハミ)),西州(トゥルファン),庭州(ジムサ)などの州県を置いた。そののち一時統一されたが,唐はこれを討ち(657年),二人のカガンを立てて統制した。7世紀末にテュルギシュが興ってこの2カガンを追い,ここに西突厥は滅亡した。東突厥は第二可汗国時期に北アジアの遊牧民族としてはじめて文字(突厥文字)を用いて年代表示のある自身の記録を残した。第一可汗国時代からソグド人と関係が深く,仏教も一時上層で行われた。
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…土門の子,木杆(ムカン)可汗のとき柔然を滅亡させ(555),ついで吐谷渾(とよくこん),契丹,キルギスを併せ,ユチュケン山を本拠として発展をとげた。オアシス地帯と東西通商ルートを抑えた西面可汗の勢力にくらべると,モンゴリアの突厥は大可汗のほかに小可汗が分立し不安定であった。 583年には西面可汗が独立して西突厥といわれ,のち射匱(しやき)可汗,トン・ヤブグ・ハガン(統葉護可汗)のころ最盛期を迎えた。…
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