翻訳|Assyria
メソポタミアの北部からおこり,古代オリエント最初の世界帝国を築きあげたセム人系国家。アッシリア本土は,イラク北部北緯37°付近から南,ティグリス川と小ザブ川の合流点付近に至り,西は広漠たる原野へとつながる,ティグリス川中・上流とその支流の流域を中心とする逆三角形の国土を指す。東部には肥沃な河谷があって農耕に適する。
この地の北部のシャニダールでネアンデルタール人の頭蓋骨が発見されており,旧石器時代以来人類が住んでいたことがわかる。新石器時代の定住農耕生活も南部のバビロニア地方より早く,前6千年紀には灌漑によって形成された村落が出現した。前5千年紀には,ハッスナ,ハラフ,サーマッラーの三つの文化圏が確認されている。前3千年紀の前サルゴン期には,膠着語を話す,均質的とはいえないがフルリ人と親縁関係にある定着原住民スバル人の上に東セム系遊牧民が支配的要素として加わり,今やメソポタミアの発展の先頭に立つシュメール文化の影響の下に,都市アッシュールが建設された。アッカド王国時代にはサルゴン王らによって征服され,マニシュトゥシュ王がニネベに神殿を造営している。アッカド美術の傑作である,サルゴン王を写したとされるブロンズ製頭部像もニネベ出土である。シュメールのウル第3王朝直前にアッシリアに初めてアッカド語で書かれた記録が現れ,ウル第3王朝時代にはアッシュールが総督所在地となった。当時アッシリアはシュメール語でシュビル,アッカド語でスバルトゥと呼ばれた。
前2千年ごろからアッシリアもアムル(アモリ)人の浸透を受けたが,前2千年紀はじめごろの古アッシリア時代に書かれたアッシリア語は,同じアッカド語の主要方言であるバビロニア語といちじるしく異なっていた。主要都市としては,アッシュールのほかにニネベ,ウルビルム(後のアルベラ)があった。アッシリアには大理石などの石材のほかは資源が乏しく,早くから遠距離貿易が発達したが,前19世紀には小アジアにアッシリア人の商業植民地カニシュやハットゥサが建設され,母市アッシュールとゆるやかに結びついて活発な交易活動を行っていたことが,3代にわたる植民地商人の記録によって明らかになった。アッシリアに初めて大きな政治的統一をもたらし,北方の一強国を建設したのが,同世紀末に現れたアムル人出身のシャムシアダド1世(在位,前1813-前1781)で,マリを征して北メソポタミアのほぼ全域を支配した。しかしその息子たちの時代にはバビロンのハンムラピ王によって征服された。以後フルリ人の侵入を受け,さらに前15世紀にはミタンニ王国の属国となった。この時期においても,前1670年ごろ以降,古都アッシュールではアッシリア人の王朝が存続し,その王名表が伝承されている。
長い雌伏期の後,前14世紀中ごろアッシュールウバリト1世Assur-uballit Ⅰ(在位,前1365-前1330)が登場し,ヒッタイト王と結んで,前1350年以降ミタンニを攻撃して北部メソポタミアを回復,ふたたび富強な王国を建設した。王はスバルトゥと呼ばれていたアッシリアを初めて〈アッシュールの地〉と命名し,自ら大王と称し,エジプトと対等に交渉し,バビロニアの政治にも介入した。後世のアッシリア人は王をアッシリア帝国の真の建設者とみなしている。実際,王の死後もすぐれた支配者がつづき,6王158年間にわたって国力が発展し,エジプト,バビロニア,ヒッタイトと並ぶ強国の地位を確立した。前13世紀末には,トゥクルティニヌルタ1世Tukulti-ninurta Ⅰ(在位,前1244-前1208)のもとに,短期間ではあるがバビロンを支配した。アッシリアのこのような発展の背後には,アッシリアの土地貴族が供給する馬のひく戦車隊と自由農民を中心とする歩兵があり,アッシュールの富裕な市民や神官たちの支援があった。前3千年紀以来のアッシリア商業の伝統が,前2千年紀後半のこの中期アッシリアに至って強烈な軍国主義と結びつき,新交易路の開拓と領土拡大が連動したのである。しかし王の死後はティグラトピレセル1世Tiglath-pileser Ⅰ(在位,前1115-前1077)の地中海やワン湖にまで進出した軍事的・経済的成功を除いて,アッシリアはふたたび長い雌伏期に入り,西方諸民族,ことにアラム人や東方の山岳民族ルルビの侵入・圧迫に苦しみ,その領土はティグリス川流域の狭い地域に縮小した。
前1千年紀はじめのメソポタミア史上のもっとも重要な要素は,半遊牧民アラム人の不断の脅威であった。アッシリアはアッシュールダン2世Assur-dan Ⅱ(在位,前934-前912)のもとで,アラム人や山岳民族の鎮圧に成功,次王アダドニラリ2世Adad-nirari Ⅱ(在位,前911-前891)以降征服事業を再開する。この王は戦争のほかに農業改革についても詳細な記述を残している。その孫で大征服王たちの先頭に立つのがアッシュールナシルパル2世Assurnasirpal Ⅱ(正しくはアッシュール・ナーシル・アプリAššur-nasir-apli。在位,前883-前859)である。王は,歩兵・戦車隊のほかに初めて騎兵隊を導入し,また都市攻囲用の動く重破城槌を初めて用いるなどの戦術上・軍事技術上の改革を行い,北方と東方に向かって征服地を拡大して属州とし,北方貿易路を確保するとともに,西方にも親征してシリア,フェニキアの諸都市を従えたので,アッシリアは小アジアの鉄,アマヌス山脈の銀,レバノンの杉を手中に収める大帝国となった。この王の遠征に次ぐ遠征,串刺し・皮はぎなど反乱住民に対する徹底した残虐行為,住民根こそぎの大量強制移住政策は,この国を〈アッシリアの狼〉の名で恐れさせるにいたった。しかしこの王には,あえてバビロニアに大規模な攻撃を加えて蹂躙(じゆうりん)せず,同根の文化と宗教を持つこの隣接先進地域との相互交易と文化交流に努めたり,カルフ(ニムルド)を再建してこれを首都とし,広大な宮殿を造営して,その治世中に早くも帝国の文化センターとする,という側面もあった。次王シャルマネセル3世Shalmaneser Ⅲ(在位,前858-前824)は領土をさらに拡大した。この時期から,有能な王の下において,新しく帝国に編入されて属州となったばかりの征服地に入ったアッシリアの役人たちの示す行政事務機能の優秀さが目だってくる。しかしシャルマネセルの死後アッシリアは数十年間の衰退期に入り,かなりの北方領土とシリア全域を失った。
軍事クーデタによって王位についたティグラトピレセル3世(在位,前744-前727)は,属州や臣従王国で徴募・訓練された常備軍をアッシリア軍隊の主力とするという軍制上の大改革と鉄器時代の先端を行く軍備改善や,アッシュールなどの大都市の免税特権の廃止などの内政改革を行って,大遠征にのりだした。北方ではウラルトゥを撃退,西方ではダマスクス,シリア,キリキア,フェニキア,ユダヤを攻略してエジプト国境まで勢力を拡大,北西方ではマンナイ人,キンメリア人を討ち,東方ではアゼルバイジャン地方まで出兵してメディアの一部を領土とし,南方ではバビロニア王を兼ね,世界帝国時代を開幕させた。次王シャルマネセル5世(在位,前726-前722)はサマリアを征服し,イスラエル人を強制移住させた。この王は暗殺されたらしい。つぎのサルゴン2世(在位,前721-前705。新首都ドゥル・シャッルキンを造営)から,センナヘリブ(在位,前704-前681。首都ニネベ。バビロンを徹底的に破壊した),エサルハドン(在位,前680-前669。首都ニネベ),アッシュールバニパル(在位,前668-前627ころ。首都ニネベ)までの4代は時にサルゴン朝と呼ばれ,90余年にわたって世界帝国が維持された。特にエサルハドンの治世には,版図はイラン西部からエジプト本土全域にまで及んだ。しかし遠く離れたエジプトや同根文化の先進地域バビロニアの支配への深入りは,それら伝統ある地域の反発と団結を招き,帝国の生命線である北方および北東方の守りをゆるがせにさせ,さしもの強力な軍事組織を疲弊させた。やがてキアクサレスの率いるメディア人,ナボポラッサル治下のカルデア人,北方からのスキタイ人などの圧迫にアッシリアは抗しきれず,前614年にアッシュールが,前612年にニネベとカルフが陥落し,アッシリアは前609年混乱のうちに滅亡した。アッシリアは,のちローマの支配下に入り,後115-117年の短期間,ローマの属州となった。
完全に鉄器時代に入り,一つの国際化した歴史的世界となった前1千年紀の古代オリエント世界において,アッシリアはティグラトピレセル3世以後6代約140年間の長きにわたって,ペルシア湾から地中海に達し,イラン,小アジア,アルメニア,エジプトの一部を含む世界帝国を実現した。それを支えた要因としては,メソポタミアを通ずる二大幹線通商路を支配して,征服地からの貢納品の流入や交易品への税徴収によって巨利を得たこと,遠隔の征服地の多数の住民を根こそぎアッシリア本土などに移住させ,あとには帝国内の他地域の住民を再定住させる大規模強制移住策の強行,徴募・装備においても,戦術・訓練においてもすぐれた常備軍の維持,征服地域における発達した行政組織,さらにアッシリアの大王たちが戦略・戦術や組織の豊かな天分と名だたる残虐性とをあわせ持って,大常備軍と統治機構を指揮・監督したこと,などが挙げられる。アッシリア文化に関しては,宗教,文学,法律,実際的科学など一般的にバビロニア文化に負うところが大きい。しかしまたアッシリアの歴史の後進性・周縁性・ダイナミズムを反映した,民族的伝統の保持・発現の側面もある。各年を,王族・貴族・高官の中から1名選んだ最高官リンムlimmuによって名づけ記録する古来のエポニム制が世界帝国時代まで保持されたこと,アッシリア王名表中の〈天幕(テント)に住んだ〉とされる最初の17人の部分は,前サルゴン期にさかのぼる古い伝承を伝えていること,中期アッシリアの法書が刑量の非常な過酷さを示していること,またアッシュールナシルパル2世,ティグラトピレセル3世,センナヘリブのように,アッシュール神への帰依にもとづく国粋主義政策をほとばしらせる君主がかなり現れたこと,などがそれである。アッシリアがバビロニア文化を受けつぎながら重要な発展を示した領域としては,美術,数学,工学的技術の諸分野がある。
→バビロニア →メソポタミア
執筆者:山本 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ティグリス川中流域のアッシュール市Assurから興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前610年まで存続した。ティグリス、ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は本来フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(前2300ころ)である。前2000年ごろはウル第3王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方および北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われる。
[前田 徹]
この時期にアッシュールは独立した有力商業都市(国家)となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置き、おもに銅、錫(すず)交易を活発に行っていた。前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダド1世(在位前1813~前1781)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保とその権益の擁護が主目的であったと思われる。このアッシリアもバビロン第1王朝のハムラビに屈し独立国の地位を失ったのである。
[前田 徹]
インド・ヨーロッパ語族の大移動によって、前1500年ごろ成立したミタンニに、アッシリアは隷属せざるをえなかった。アッシリアは通商路の重要拠点に位置することで国勢が伸張したが、この地理的条件は逆に諸民族の移動の影響をまともに被る弱点ともなっていた。以来、アッシリアは四方の敵に備えざるをえなくなる。ヒッタイトのシュッピルリウマシュが攻撃したことで、ミタンニが弱体化すると、アッシリアのアッシュール・ウバリト1世(在位前1365~前1330)は独立をかちとった。彼はさらに娘をバビロン王に嫁し、孫を王位につけ、政治の主導権を握った。アダド・ナラリ1世(在位前1307~前1275)はシリアまで進出した。これに脅威を感じたエジプトとヒッタイトは、敵対していたのであるが、一変して対アッシリアのため友好条約を締結するに至った。アマルナ文書において、アッシリア王は「エジプト王の兄弟」とよばれるほど、列国に伍(ご)する強国となったのである。アッシュール・ウバリト1世治下に、アッシリアはバビロンを圧倒する勢いを示していたが、トゥクルティニヌルタ1世(在位前1244~前1208)はついにバビロンを攻略し、主神マルドゥクの像を奪うまでになった。中アッシリアにおいては、商業国家から軍事国家への変質がみられる。たとえば馬と鉄を利用した軍の再編成、官僚制の整備、アッシリア法典の編纂(へんさん)が行われた。
[前田 徹]
前1200年ごろから始まった「海の民」(ペリシテ人)の移動による西アジア、東地中海世界の混乱のなかで、アッシリアは、とくにアラビア砂漠から移動してきたアラム人との対立によって弱体化した。アラム語は国際語としてアッシリアでも使用されることになった。アッシュール・ダン2世(在位前934~前912)が復興の基を築いた。アッシュール・ナシルパル2世(在位前884~前859)はカルフ(ニムルード)に新都を造営した。ティグラト・ピレセル3世(在位前745~前727)によって帝国時代の幕があけられた。彼は軍制改革と内政改革によって王権の強化を図り、また、それまでの「あらゆる敵を殲滅(せんめつ)する」方式に、強制移住政策を加え、諸民族の反乱の根を断ち切ろうとした。この政策は新バビロニアのネブカドネザルの「バビロン捕囚」に継承される。真にアッシリアの最盛期はサルゴン朝の時代に到来する。サルゴン2世(在位前721~前705)は北方の雄国ウラルトゥを破って後顧の憂いをなくし、地中海沿岸に出兵してはイスラエル王国を滅ぼした。彼は新都ドゥル・シャッルキン(コルサバード)も造営した。エサルハッドン(在位前680~前669)はエジプトに侵入し、首都メンフィスを占領、下エジプトを制圧した。短期間ながらオリエント世界の統一が実現したのである。アッシュール・バニパル(在位前668~前627?)は再度エジプトに侵入し、上エジプトのテーベまでも攻略した。さらに東方エラムを征服することで最大版図を実現した。彼は図書館をつくったことでも有名である。しかし、アッシュール・バニパルの死後数年で内紛が起こり、それに乗じられて、前612年、『旧約聖書』に「わざわいなるかな、血を流す町」とあるごとく、首都ニネベはメディア王キャクサレスとバビロン王ナボポラサルによって徹底的な略奪と破壊を被り、廃墟(はいきょ)と化した。そして前610年アッシリア帝国は完全に滅亡したのである。
[前田 徹]
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ティグリス川中流域,メソポタミア北部の古代国家およびその領域をさす名称。アッシュル市を中心として前2千年紀初頭までには都市国家を形成し,アナトリアとメソポタミアを結ぶ交易の担い手となった。前14~前13世紀には西アジア世界の列強国として台頭した。その後,盛衰をへて,前9世紀から前8世紀にかけての大規模な軍事遠征によって西アジア全域に進出,強制移住政策によって征服地に住民の入れ替えを行い,次々と行政州を形成して広域を併合した。前8世紀末から前7世紀後半の最盛期にはメソポタミア,シリア・パレスチナ,アナトリア南東部,イラン西部を行政州あるいは朝貢国として直接間接に支配し,西アジア広域に帝国として君臨した。その支配は一時エジプトにも及んだ。前7世紀のアッシュル・バニパルの治世を頂点に衰退し,前612年,新バビロニアとメディアの連合軍により帝国の首都ニネヴェを攻略されて滅亡した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ミタンニの勢力は前15世紀に絶頂に達した。前14世紀以降になると,エジプト新王国,ヒッタイト,アッシリアなどの外国軍隊がシリアを戦場とした。シリアの諸都市も互いに抗争し,弱体化した。…
… しかし,鉄の生産はまだきわめて限られ,隕鉄の利用も少なくなく,鉄は相変わらず貴重品であった。前20~前19世紀のアッシリアとアナトリア東部の交易を伝える〈キュルテペ文書〉に数種の鉄の名称がみられるが,そのうちの一つであるアムートゥムamūtumは金の8倍以上の価値を有していた。アナトリア東部は,アルメニアとともにしばしば製鉄の起源地に仮定されてきた地域である。…
…イラク北部,モースルからティグリス川を渡って約500mにあるアッシリアの首都。センナヘリブ王が前700年ころから建設してのち,前612年の滅亡まで存続した。…
…現在のイラクのバグダード以南の沖積平野を中心としたメソポタミア南部を指す歴史的呼称。しばしば北部のアッシリアと対比され,またバビロニア南部はシュメール,北部はアッカドと呼ばれる。その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。…
…この地域に人類最古の文明が繁栄した。
[地域と風土]
メソポタミアは,本来的にはバグダード以北の両河流域地方(ほぼアッシリアに対応)を指し,以南を示すバビロニアと対立的に用いられたようである。アラブは狭義のメソポタミアをジャジーラal‐Jazīraと呼んだ。…
※「アッシリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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