日本大百科全書(ニッポニカ) 「嘉助騒動」の意味・わかりやすい解説
嘉助騒動
かすけそうどう
1686年(貞享3)信濃(しなの)国(長野県)松本藩水野氏に起こった百姓一揆(いっき)。原因は、藩の種々の年貢、課役の増徴策にある。籾摺(もみす)りして1俵当り米3斗5升になるよう籾を納めさせるなどの過酷な命令に対し、領内各村の百姓は、これを高遠(たかとお)藩鳥居氏などの隣藩並みに2斗5升摺(す)りに下げることなど5か条を要求して、10月14日2000人で城下に強訴(ごうそ)した。さらに城下に滞在して藩と交渉する間に、米商人宅など5軒を打毀(うちこわ)している。打毀を伴った全藩的強訴としてはもっとも早い事例に属し、一揆史上の転換点を示す闘争といえる。一揆はその要求を貫徹しえたが、指導者中萱(なかがや)村嘉助(多田加助(ただかすけ))ら8名が家族とともに極刑に処せられた。このとき磔(はりつけ)にされた嘉助が松本城をにらむと天守閣が傾いたといい、また後世、藩主水野忠恒(ただつね)の刃傷(にんじょう)、改易(かいえき)も嘉助の祟(たた)りと言い伝えられ、彼は義民として語り継がれた。とくに、明治前期の自由民権運動家松沢求策(きゅうさく)(1855―87)は、『民権鑑嘉助面影(みんけんのかがみかすけのおもかげ)』という劇を上演し、その事績を広く世に知らしめる活動を展開している。
[保坂 智]