四条縄手合戦場(読み)しじようなわてかつせんじよう

日本歴史地名大系 「四条縄手合戦場」の解説

四条縄手合戦場
しじようなわてかつせんじよう

正平三年(一三四八)一月、飯盛いいもり山西麓を南北に貫通する東高野街道を主舞台に繰広げられた南朝楠木正行軍と北朝高師直軍の一合戦場。この時の戦いで正行は敗れて自害した。讃良さらら郡の条里は現大東だいとう中垣内なかがいとうを一条とし、北上して同市北条ほうじようが四条・五条にあたり、四條畷市南野みなみのが六条となる。「太平記」に「四条縄手合戦」とあるが、記事中の関連地名からだけでは、この四条縄手が讃良郡内と断定できないこと、河内郡近世四条村があることなどから、現東大阪市内に比定する説もあったが、以下の史料から讃良郡内の四条縄手であったことは確実である。すなわち、貞和四年(一三四八)正月一二日付で足利直義が島津上総入道に下した書状(薩藩旧記)に「今月五日楠木帯刀、同舎弟次郎、和田新発、同弟新兵衛以下凶徒数百人、於河州佐良々北四条所討留也」、同年二月一三日の諏方部扶直軍忠状(三刀屋文書)に「同二日付河内国佐良々著到、同五日於四条御合戦致軍功」などとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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