いいもり‐やま いひもり‥【飯盛山】
[1] 〘名〙 飯を盛り上げたような形の山。またその由来を説明し、あるいは
長者伝説や白米城伝説の結びついた山。およびその伝説。
[2]
[一] 福島県
会津若松市の北東部にある小丘。戊辰
(ぼしん)戦争の時、戸の口原の戦いに敗れた
白虎隊が
若松城を望んで自刃した地。標高三七〇メートル。
弁天山。
[二] 大阪府
大東市、
四条畷(しじょうなわて)市の境にある、
生駒山地の山。南北朝時代、高師直
(こうのもろなお)と激戦した楠正行
(まさつら)、正時兄弟が麓
(ふもと)の四条畷で自刃した。標高三一八メートル。
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デジタル大辞泉
「飯盛山」の意味・読み・例文・類語
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飯盛山
いいもりやま
会津盆地東縁山麓の山で、標高約三七〇メートル、飯を盛った形に似るところより山名が付けられたという。また山麓に弁天を祀った宗像神社(現厳島神社)があるので一名弁天山といい、山麓を弁天下・坂下・坂本ともいう。昔から宗像神社の神域とされ、藩主松平正容は山の周りの地を神社に寄付し、また境内の地を年貢免除とし(家世実紀)、さらに宇賀神の像を寄付している。
飯盛山
いいもりやま
[現在地名]足助町足助 飯盛
巴川の右岸、香嵐渓の中心にそびえる標高二五四メートルの独立丘。円錐形の山容を示し、山頂に数個の巨石が集められている。足助八幡宮境内付近の宮ノ後・宮平では、この山を霊山として山頂の岩石を石神あるいは磐座として崇拝したものと推定されている(足助町誌)。
大正一三年(一九二四)一〇月、古鏡一面と鉄製の小刀一振を発掘。昭和二七年(一九五二)の調査では、経塚の存在が確認された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
飯盛山 (いいもりやま)
福島県会津若松市市街地の北東にある山。弁天山ともいう。磐越西線会津若松駅より約2.2km東方にあり,標高約372m。全山赤松におおわれている。1868年(明治1)戊辰戦争の折,白虎隊士20名が自刃(うち1名は蘇生)した地として知られ,1965年再建された鶴ヶ城(若松城跡,史跡)とともに会津観光の中心をなしている。この山は孤立した峰ではなく,その南東部はしだいに高くなり,猪苗代盆地と会津盆地の境にある標高800m前後の背あぶり高原に続いている。飯盛山はもともと宗像(むなかた)神社の神域であり,西の中腹に本社(明治以降は厳島神社と改称),宇賀神堂や通称さざえ堂と呼ばれている六稜三層の円通三匝堂(さんそうどう)(1796建立),および20名の白虎隊士が戸ノ口原の戦にやぶれ退いて来た時通った戸ノ口堰の洞門などがあり,その上手に白虎隊士の墓,イタリア首相ムッソリーニ寄贈碑,ドイツ武官碑,藩主であった松平容保(かたもり)の追悼歌碑などがある。
執筆者:大澤 貞一郎
飯盛山 (いいもりやま)
生駒山地北部,大阪府大東市と四条畷市の境にある山。標高318m。この一帯は南北朝のころ楠木正行らの四条畷の合戦で知られる。山麓を東高野街道が通り,さらにその西方には深野池をはじめとする沼沢地が広がるという戦略上重要な位置にあったため,応仁の乱時から戦国時代末期にかけて,この地をめぐる攻防が絶えなかった。16世紀初頭には飯盛城が設けられ,とくに三好長慶が本拠とした1560年(永禄3)から8年間は,ここが畿内政治の一中心地となった。山頂は平たんで大阪平野を広く眺望でき,ハイキングコースとして親しまれている。西麓に旧別格官幣社四条畷神社がある。
執筆者:服部 昌之
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飯盛山
いいもりやま
福島県西部,会津若松市の北部にある山。別称弁天山。標高 380m。 1868年会津戦争で若松城陥落の際,ここで切腹した白虎隊 19人の墓所がある。隊士は上級藩士の子弟。参道の下には史料パノラマを展示する白虎隊記念館がある。山麓にある寛政8 (1796) 年建造の栄螺堂 (さざえどう。旧正宗寺三匝堂として国の重要文化財に指定) は,高さ 16mの六角三層の木造の塔で,螺旋形の内部を旋回して昇降するのでこの名がある。付近に宗像神社,宇賀神社がある。
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