四条村
しじようむら
[現在地名]東大阪市四条町・南四条町・上四条町・客坊町・若草町・末広町・神田町・瓢箪山町・御幸町
生駒山地西麓の扇状地上にある。北は客坊村・喜里川村、東は山の尾根で大和国、南は六万寺村。集落の西を東高野街道が南北に通る。えの木塚古墳(中期)がある。瓢箪山稲荷神社の南東に一里塚があり松が植えられていた。小字名に一里山がある(明治五年「村明細帳」横内家文書)。四条の地名は条里制の四条に由来する。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に山城石清水八幡宮護国寺領河内郡林灯油薗がみえ、その字名に「肆条梶無里」「肆条黒田里」がみえる。梶無里は六万寺の式内社梶無神社近辺と思われるが、明治五年(一八七二)の当村の明細帳に延宝検地帳の字名と地番が載り、その中に「梶無」(七番)・「南梶無」(一三番)がある。
四条村
しじようむら
[現在地名]満濃町四条
五条村の北、土器川左岸の平地部に位置し、南は榎井村(現琴平町)。四条の名称は条里の名残であるが、条里遺構は土器川の氾濫とその後の耕地整理によって失われ、現在は天皇集落の一部に坪並がかすかに残るだけである。本村集落の立薬師堂は白鳳時代の弘安寺の遺跡として知られる。建永二年(一二〇七)に讃岐に流された法然は、小松庄の生福寺に止錫して念仏の教えを説いたと伝え(法然上人絵伝)、天皇集落の生福寺跡(現在は集会所)には法然の石像が祀られている。寛永国絵図では小松庄に属した。寛永一八年(一六四一)の満濃池水掛高帳(鎌田博物館蔵)には「九百九十石 四条村」とある。
四条村
しじようむら
[現在地名]越谷市東町・川柳町
南百村の南、古利根川(中川)の右岸に位置し、集落は同川の自然堤防上の旧奥州道沿いに集中している。地名は条里制の遺名ともいわれ、その遺構も認められるという。永禄一〇年(一五六七)七月一九日、太田氏資は平林寺(現岩槻市)の寺領と末寺を安堵しているが、その書状(平林寺文書)に「平林寺領馬籠并四条之村」とあり、天正一四年(一五八六)九月二八日の平林寺宛太田氏房判物(同文書)でも両所が安堵された。
四条村
しじようむら
[現在地名]橿原市四条町
今井村南方の環濠集落。「大和志」に「四条属邑一」とある属邑は新町村のことで、延宝八年(一六八〇)新町村に切支丹高札場があったという記録が残る。
文禄検地奉行は本馬三十郎・奥津新内。慶長郷帳の石高は八七六・五石。うち八一〇・四石は高取藩領、四六・一石は壺坂山南法華寺(現高市郡高取町大字壺阪)領、二〇石は岡村竜蓋寺(現高市郡明日香村大字岡)領の相給村。
四条村
しじようむら
[現在地名]生野区巽〈中四丁目・東二丁目・南一―五丁目・西四丁目〉
渋川郡に属し、大地村の南にある。平野川が南端から西端にかけて北流する。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高八八七石余。領主の変遷は西足代村に同じ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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