土器村(読み)どきむら

日本歴史地名大系 「土器村」の解説

土器村
どきむら

[現在地名]丸亀市土器町

城下の東に位置し、北は瀬戸内海に面する。中央部を土器川が北流し、東にあおノ山(二二四・五メートル)がある。西麓の郡屋こおりや鵜足うた郡の郡衙所在地と伝え、近くに青ノ山一号窯跡がある。西は土居どい村・山北やまのきた村。高松城下に続く丸亀街道が通る。土器保の遺称地。「延喜式」には讃岐国の調として坏の類が多数掲げられており、同保はそれら土器の生産に充てるため平安時代に国司により便補された保と思われる。貞和四年(一三四八)八月一五日の左兵衛尉某遵行状写(徴古雑抄)によれば、同保田所職は又次郎入道跡として同月一三日宇夫階うぶしな歓喜寺(現廃寺)に寄進されている。讃岐守護代秋月左衛門太郎に遵行を命じている点からみて、同職は又次郎入道の罪科などにより没収され、守護細川顕氏より守護所の所在地である宇多津うたづ(現綾歌郡宇多津町)寺院へ寄進されたと判断される。貞治二年(一三六三)九月二八日、讃岐守護細川頼之より歓喜寺への安堵状(斑島文書)が出されている。

地内の川古かわご皮古かわご保の遺称地とされる。

土器村
どきむら

[現在地名]八日市市土器町

上大森かみおおもり村の南東にあり、布引ぬのびき山からその山麓斜面に広がる。村名は古くこの山麓で土器製造が行われたことに由来するといわれ、かわらけともよむ。また北西部のどうもりどう西にしからは平安―鎌倉期の寺院跡が発見されている。慶長七年(一六〇二)検地時の高は三三四石余、反別二四町三反余(田二四町余・畑屋敷三反余)。延宝七年(一六七九)検地時に村高三一一石余・反別二四町六反余(延宝七年「検地帳」土器町区有文書)。支配領主は近世前半はおおむね幕府領、元禄一一年(一六九八)から延享三年(一七四六)まで旗本板倉領、また天明六年(一七八六)からは山城淀藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報