土生浦(読み)はぶうら

日本歴史地名大系 「土生浦」の解説

土生浦
はぶうら

[現在地名]山陽町大字埴生はぶ

厚狭郡の西部、瀬戸内海に南面した漁村。東は津布田つぶた北東山野井やまのい、北は福田ふくだ吉田よしだ(現下関市)、西は大持おおもつ小埴生おはぶの各村に接する。村内南部を山陽道から分れて赤間関あかまがせき(現下関市)に至る支道が通る。村域内には高山もなく、各村との境界をなす山並も老年期のなだらかな丘陵で、浦の中央部を前場まえば川が南流する。萩藩領で吉田宰判に属する。「延喜式」にみえる「埴生駅」はこの辺りにあったとされる。

この地に比定される埴生庄は、承安元年(一一七一)一二月一二日付の官宣旨(石清水八幡宮記録)によれば、石清水いわしみず八幡宮(現京都府八幡市)宝塔ほうとう院領の荘園一二ヵ所のうちの一ヵ所となっている。

応安四年(一三七一)一〇月九州探題今川了俊がこの地を通り、「道ゆきぶり」に

<資料は省略されています>

と記している。また文明一二年(一四八〇)連歌師宗祇が九州大宰府(現福岡県筑紫郡太宰府町)まで旅行した時の紀行「筑紫道記」に

<資料は省略されています>

と当時の様子を記している。寛正二年(一四六一)の大内家掟書には山口からの行程として、埴生は二日路半とされている。

なお天文一〇年(一五四一)大内氏の遣明船の使節だった京都天龍てんりゆう寺の僧策彦周良の「入明記初渡集」には「土生はぶ」と記している。豊臣秀吉の九州島津討伐から文禄・慶長の役に至る時期に、秀吉やその家臣が「はふ」に立ち寄った(「閥閲録」所収堅田安房家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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