連歌を職業とする者の通称。連歌に巧みな者,連歌を好む者の中から連歌の指導や連歌会の運営に携わる僧体の専門家が分化し,やがてそれを職業とする〈連歌師〉なるものが生まれたと考えられる。鎌倉時代の中・後期にその初期形態が見られ,13世紀半ばの道生(どうしよう),寂忍らが〈花下(はなのもと)連歌〉の興行・指導をしているのがその例であるが,実態は明らかではない。14世紀はじめころ活躍した善阿(ぜんあ)は七条道場金光寺の僧であったが,組織的な連歌会の運営と門弟の育成をおもな仕事としており,連歌式目の制定にも関与するなど,専門の連歌師と呼ぶにふさわしいものがある。作風も前代の和歌的情趣による句作を超え,〈地下(じげ)〉独自の雅俗入りまじった付合(つけあい)を創始し,地下連歌の作風の源流となった。善阿の弟子救済(ぐさい)は,連歌活動において師を上回るものを示すとともに,連歌という場が要求する多面的な作句能力を持つすぐれた連歌作者であった。ために,時の貴族界の頂点にいた二条良基に認められ,《菟玖波(つくば)集》の編集,《応安新式》の制定に関与し,連歌界の指導者として重要な位置を占めた。さらに,ほぼ同時代の周阿(しゆうあ)や室町時代初期の梵灯(ぼんとう)庵主らを経て,宗砌(そうぜい),宗祇(そうぎ),宗長,兼載(けんさい),宗碩(そうせき)らが,室町中期から後期にかけて連歌の最盛期を形成した。なかでも宗祇は代表的な連歌師で,低い階層から連歌によって身を立て,ついには北野連歌会所奉行(北野天満宮に設けられた連歌活動を統轄する幕府の機関の長)という指導的位置につくに至った。多くの連歌作品,連歌論を残し,兼載らとともに《新撰菟玖波集》の編集に携わり,古典研究においても一家を成すに至った。公家や上級武士,地方武士などとも深い交渉を持ち,地方を旅することが多く,文化の伝播者の役目をおのずと果たすとともに,旅によってみずからの詩心を深めたといってよい。室町末期から戦国時代にかけての,宗牧,宗養,紹巴(じようは)らの生き方は宗祇によって示されたものを多少とも継承している。とくに紹巴のごときは,若年の決意として〈連歌師は出世しやすい道であって,職人・町人も貴人の座に連なることができる〉と広言していたという。さらに紹巴以前にも例がないわけではないが,法橋(ほつきよう)や法眼(ほうげん)という僧位を得て,それが連歌師の地位を対外的に示すようになるのは紹巴以後が顕著である。やがて連歌師は世襲制によって既得の地位を守ろうとするようになる。すでに谷宗牧・宗養父子にそのきざしがあったが,それが公然とした形をとるのは里村昌休・昌叱(しようしつ)父子においてであり,昌休が昌叱の養育を紹巴に託したことから,里村家はやがて昌叱系の南家と,紹巴系の北家に分立し,江戸時代を通じて幕府に奉仕する〈連歌の家〉の代表格となる。ほかにも,幕府や地方大名に仕えた連歌師はほとんどが世襲であったことから幕末まで命脈を保つが,作者としての活動には見るべきものはない。
執筆者:奥田 勲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地下(じげ)連歌において指導的役割をする者。鎌倉末期から用例がみられ,連歌の上手を意味する場合から,宗祇(そうぎ)や紹巴(じょうは)らのような職業連歌師をいう場合まで多様。北野神社連歌会所の宗匠はその頂点であった。職業連歌師の姿は「七十一番職人歌合」によれば,黒衣の法体(ほったい)で側に執筆(しゅひつ)の少年を従える。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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