在田庄(読み)ありたのしよう

日本歴史地名大系 「在田庄」の解説

在田庄
ありたのしよう

現加西市の北西部にあった平安時代末期から室町時代にかけての庄園。有田とも記した。庄内は下庄・上庄に分れており、下庄は現上野うえの町の石部いそべ神社を惣社とする上芥田かみげた町・下芥田町・広原ひろわら町・佐谷さたに町・上野町・越水うてみ町・殿原とのはら町・きた町・鴨谷かもだに町・別所べつしよ町ならびに笹倉ささくら町の一部を庄域とする。上庄は現下道山しもみちやま町の礒崎いそざき神社を惣社とする上道山町・下道山町・若井わかい町・大内おおち(以上は中世には道山村と称した)と、上万願寺かみまんがんじ町の若一にやくいち神社を惣社とする上万願寺町・下万願寺町(以上は中世には満願寺村と称した)が庄域である。礒崎神社・若一神社ともに氏子神輿石部神社へ渡御していた。

寿永三年(一一八四)四月五日の源頼朝下文案(久我家文書)に在田庄とみえ、源頼朝は当庄を含む池大納言平頼盛の旧領一七ヵ所を頼盛に還付した。源平合戦後、後白河上皇は平家が庄務権を有する所領を没収して頼朝に与えていた。「吾妻鏡」同月六日条によれば、頼朝は頼盛の母池禅尼が平治の乱のあと頼朝を救ってくれた恩義に報いるため、その家領三四ヵ所を返還したという。頼盛は領家職に復帰したものと思われる。貞応元年(一二二二)と推定される五月二日の北条義時書状(朽木文書)によれば、以前は頼盛の外孫平保教(藤原保家の猶子)が領していた。保教は承久の乱では京方にくみし山城石清水いわしみず八幡宮で自害し、乱後在田庄は没収され関東御領となった。承久三年(一二二一)八月二五日、幕府は平保業(頼盛の子)在田道山ありたみちやま(在田上庄)の預所職に任じている(「北条義時安堵状」朽木文書)。保業より四代目の子孫平宗度は元亨二年(一三二二)一一月二六日、嫡子増一丸(顕盛)に在田上庄内満願寺まんがんじ地頭代官職を、庶子亀松丸に同村久重ひさしげ菊延きくのぶ宗光むねみつの三名を譲与している(「平宗度譲状」同文書など)。平顕盛は元徳二年(一三三〇)九月二二日、近江国朽木時経の孫万寿丸(経氏)を一期養子に迎え、家督と所領を譲った(「平顕盛譲状」・同年一〇月二二日「朽木時経請取状」同文書)以後は在田庄と池流平氏・朽木氏を結ぶ史料はなく、どのような経過をたどったか定かではない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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