満願寺村
まんがんじむら
[現在地名]南小国町満願寺
満願寺川沿いに集落が広がり、北は波居原村、西北は赤馬場村と接する。文永一一年(一二七四)北条時頼の弟時定により満願寺が創建され、村名もこれによると思われる。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)によると、「はいハらの分」のなかに、近世に当村の小村として名のみえる南岡倉・北岡倉・志が瀬が記され、志が瀬は収納使の宿泊地であったため、最花米は免除された。慶長国絵図に満願寺村は二村記され、高二三七石七斗余と一六四石九斗余とある。
満願寺村
まんがんじむら
[現在地名]新津市満願寺・東町一―三丁目
阿賀野川左岸にあり、北は七日町村、南は中新田村。文禄三年(一五九四)の上杉氏の定納員数目録に満願寺仙右衛門の名がある。同氏は信州から来越して上杉氏から当村を与えられ、地名を姓としたと伝える。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に村名がみえる。正保国絵図には三五〇石余と記され、沢海藩領。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳には高三五一石四斗余とあり、元禄一一年(一六九八)の蒲原郡之内村々高帳(新発田市立図書館蔵)には本田のほかに一八三石余の新田高が記される。
満願寺村
まんがんじむら
西多田村の南西に位置する。南に景勝地最明寺の滝がある。地名は当地の古刹真言宗満願寺に由来する。慶長国絵図に「万願寺」とみえ、高三二石余。正保郷帳・天保郷帳とも高三二石余。領主の変遷は寺畑村(高九九石余分)と同様。享保一七年(一七三二)満願寺別当の円覚院は平井村(現宝塚市)などが境内山林に立入ったとして訴えたが、満願寺村を含む三ヵ村の立会山であると主張、円覚院の辞職とともに立消えとなった(満願寺文書)。宝暦六年(一七五六)の村明細帳(同文書)によれば田畑五町三反余、五八ヵ村入会の長尾山手銀六匁九分九厘、百姓本人五(ほか八坊が無住)。
満願寺村
まんがんじむら
道山村とともに在田上庄を構成する一村。年未詳九月二〇日の権律師実円書状(朽木文書)によると、延勝寺所司等と同庄内満願寺村地頭代との間に寺用相論があったという。地頭代は池流平氏。なお延勝寺は京都六勝寺の一つ。元亨二年(一三二二)一一月二六日、平宗度は嫡子増一丸(顕盛)に当村地頭代官職を、庶子亀松丸に当村内久重・菊延・宗光の三名を譲与し(「平宗度譲状」同文書)、嘉暦三年(一三二八)六月一一日にあらためて嫡子次郎顕盛に当村地頭代官職を譲った(「平宗度譲状」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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