坂本本郷(読み)さかもとほんごう

日本歴史地名大系 「坂本本郷」の解説

坂本本郷
さかもとほんごう

[現在地名]山元町坂元さかもと

郡の南端に位置する。東は太平洋、南は宇多うだ福田ふくだ(現福島県相馬郡新地町)、北は高瀬たかせ村・真庭まにわ村、西は小斎こさい峠をもって伊具いぐ郡へ至る。「封内風土記」では中浜なかはま磯浜いそはまおかの総称という。本村中央東寄りに下郷しもごう、本村南方に上平かみだいら、東方に中浜、東南方に磯浜西方上郷かみごうの字地があり、村域は東西一里一九町、南北一里四町(亘理郡地誌)で郡内最大である。中央の山裾を江戸浜街道が南北に縦貫する。近世には坂元本郷と記すことも多かった。また「和名抄」亘理郡坂本郷の遺称地ともいう。

建武四年(一三三七)二月六日の氏家道誠奉書写(相馬文書)によると武石四郎左衛門入道(道倫)は子息左衛門五郎(胤通か)の軍忠により、「奥州曰理郡坂本郷」を正和年間(一三一二―一七)まで知行地であったことにより、恩賞として改めて安堵されている。康永二年(一三四三)八月三日の石塔義房宛行状写(同文書)では武石新左衛門尉の勲功に対して「曰理郡坂本郷半分并長戸呂村」が「同郡鵲谷郷」の替地として与えられている。一四世紀半ばと推定される三月二四日付某預ケ状(同文書)に「曰理郡 尼邪村」とあり、下摩尼邪(谷)村を除く坂本郷(半分か)が某氏に料所として与えられており、一方観応二年(一三五一)一〇月二五日の吉良貞家書下写(同文書)によると坂本郷半分の、文和二年(一三五三)四月二〇日の吉良貞家書下写(同文書)でも「坂本郷内給所村・摩尼谷上下村・精進谷村等」の知行が、いずれも判決のでるまで武石但馬守に認められていることから、坂本郷をめぐって武石氏内部で相論があったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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