坂本郷
さかもとごう
「和名抄」東急本に「佐加毛止」の訓がある。「和泉志」は室町時代に京都北野天満宮領であった坂本庄域の今在家・桑原・一条院・坂本・坂本新家(新田)・寺門・今福・観音寺・寺田(現和泉市)と、牛滝庄の大沢・牛滝(現岸和田市)の一一村を郷域としている。黒鳥(現和泉市)も坂本庄に含まれているので、郷域内と考えてよいだろう。槙尾川・松尾川が並行して流れる中流域に位置する。郷内の遺跡には弥生後期の高地性集落である観音寺山遺跡(現和泉市)がある。同遺跡は両河川に挟まれた丘陵上にあり、一〇三棟の竪穴住居が一部にV字溝をめぐらして営まれて防御的性格をもち、各種の石器・土器などのほか鉄製の鏃・刀子・斧なども出土している。古墳は直径四六メートルの二段築成で周濠をもつ円墳である玉塚(現和泉市)があり、付近に円筒埴輪が散在する。
当郷の古代氏族として著名なのは坂本氏で、さきの玉塚も同氏の墳墓かとされている。記紀や「新撰姓氏録」の氏族伝承によると、武内宿禰の後裔で紀氏と同族と称する。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「佐加毛登」と訓を付す。現下益城郡城南町に坂本の地名があり、当郷の遺称地と思われる。「地理志料」は払川・椿・草野(下草野)・岩野・水早河内(木早河内)・中・松野原・白石野・長尾野・佐俣など一八邑(現下益城郡中央町)の中山郷に比定。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」所載の郷。「大日本地名辞書」は、郷名は神坂峠の下にあたることに由来し、式内坂本神社が坂本村千旦林(現中津川市)の八幡神社にあてられることから、坂本村・中津町・落合村(現同上)の地域に比定している。また「濃飛両国通史」は坂本駅と当郷は別の地として、坂本神社の所在から坂本村にあてている。一方「日本地理志料」は坂本駅と同地域に求め、坂本神社のある千旦林、駅があったと考える駒場村(現同上)を含め、落合・中津川・駒場・千旦林・手金野・茄子川(現同上)の諸地区にわたるとしている。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」にみえる。諸本ともに訓を欠くが、「さかもと」と読んだことは誤りない。郷域は郡の南端部、現八尾市のうち垣内・恩智の地域と推定される。坂本の名は、背後の高安山に築かれた高安城から下ってくる坂の下に位置するところから生れたのであろう。恩智には式内社恩智神社が集落の東方の恩智山中腹に存するが、その御旅所で旧社地とされる天王の森付近は、縄文時代中期から弥生時代にかけての遺跡として著名で、縄文―弥生時代の土器・石器を多量に出土した。またその遺跡の東約五キロの垣内山と都塚山とから銅鐸各一個が発見されている。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓を欠く。郷名は早く失われたが、古代史料に散見する埴生坂(「日本書紀」履中天皇即位前紀など)が現在の羽曳野丘陵の東側の地(現羽曳野市)にあったことから、おそらくこの郷名が生じたものであろう。なお「延喜式」(諸陵寮)は仁賢陵として埴生坂本陵をあげるが、同陵は丹比郡にあることを明記しており、丹比郡と接する地域に存在したことをうかがわせる。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。「遠江国風土記伝」は坂下郷として敷知郡日比沢村(現三ヶ日町日比沢)に比定し、新旧の「静岡県史」も比定地は同じ説を採る。「大日本地名辞書」は西浜名村本坂・日比沢・釣(現三ヶ日町本坂・日比沢・釣)付近とする。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」東急本には「佐加毛止」と訓を付す。中世の坂本郷は近江日吉社領柞田庄(現観音寺市)の北に位置していた(建長八年八月二九日「柞田庄四至
示注文」続左丞抄)。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。現気高町下坂本を遺称地とし、河内川西岸の瑞穂谷(坂本谷)一帯に比定される。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」東急本には「佐加毛止」と訓を付す。中世には高野山領坂下庄が成立する。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」では「佐加毛止」と読み、坂本(現山元町)の地とする。建武四年(一三三七)二月六日の氏家道誠奉書写(相馬文書)に「奥州曰理郡坂本郷事」とあり、武石四郎左衛門入道に安堵されている。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」東急本には「佐加毛止」と訓を付す。近世初期の坂本郷を遺称地とし、現綾歌郡飯山町の北部一帯に比定される。
坂本郷
さかもとごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。江戸時代の坂本村(現長南町)を遺称地とし、これを含む一帯に比定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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