坪屋村(読み)つぼやむら

日本歴史地名大系 「坪屋村」の解説

坪屋村
つぼやむら

[現在地名]東郷町坪谷つぼや

山陰やまげ村の西に位置し、坪谷川が東流する。文明三年(一四七一)一一月二八日の旦那売券(熊野那智大社文書)によると、「日向国津保屋之一族」が紀州熊野那智大社実報じつぽう院に売渡されているが、この一族は当地の者と思われる。「日向記」によると、永禄一一年(一五六八)頃の伊東氏の分国中城主のなかに坪屋城主米良休助がみえる。休助は元亀三年(一五七二)五月四日の木崎原合戦頸注文写(真幸院記)には「つほやの地頭」として名がみえ、島津義弘軍に敗れ討死している。米良氏は肥後菊池氏の一族で児湯こゆ郡の米良めら本拠とする一族であるが、山陰城主、門川かどがわ城主(現門川町)としても米良氏がみえる。天正六年(一五七八)と推定される八月一日の相良氏宛木上宗閑書状(相良家文書)によれば、日知屋ひちや(現日向市)にいた木上宗閑は、いし(現木城町)へ島津勢が押寄せたため石城確保のために大友氏の援軍出陣するとの旨を伝え、相良氏には田代・坪屋方面への出陣を催促している。同年の高城・耳川合戦では島津軍は一一月一三日、大友軍の拠点となっていた山毛やまげ・坪屋の城に侵入してこれを落し(「長谷場越前自記」旧記雑録)、さらに耳川を渡って日知屋・塩見しおみ(現日向市)へ進んだ(「耳川合戦記」同書など)


坪屋村
つぼやむら

[現在地名]会見町朝金あさかね

縄平つなひら村の南、朝鍋あさなべ川下流の朝鍋谷に位置する。集落は大きく二つに分れ、朝鍋川右岸の低地を下坪屋、その上のやや高い台地を上坪屋という。拝領高は一六六石余、本免は四ツ四歩。藪役銀二匁が課せられていた(藩史)幕末の六郡郷村生高竈付では生高一九八石余、竈数二三。「伯耆志」では家数二四・人数一〇六。享保九年(一七二四)荻名おぎな村地内大谷おおたに山の入会をめぐって寺内てらうち村など一一ヵ村と山論を起こした星川ほしかわ谷一〇ヵ村の一で、また同一三年には長者ちようじや原続きの小原山・五輪原などの入会をめぐり青木あおき(現米子市)など山下五ヵ村と争った里方二一ヵ村の一(在方諸事控)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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