朝日日本歴史人物事典 「城親賢」の解説
城親賢
生年:生年不詳
戦国時代末の肥後(熊本県)の国人領主。親冬の子。通称十郎太郎。越前守。山鹿郡城村を苗字の地とする菊池一族で,守護大名菊池氏の三老臣家の直系。父親冬は天文19(1550)年の菊池義武の失地回復戦で大友方に味方し,恩賞として本領に代え飽田,詫麻2郡の支配を認められて隈本城主となった。親賢の名は弘治2(1556)年菊池重朝の「菊池万句」の発句書写が初見,官途も称しており,すでに家督を継いでいたらしい。天正6(1578)年までは大友氏に従ったがその後は島津氏と結び,同8年には島津勢を領内に招き入れ国内計策を行うも,同9年肥前竜造寺氏の侵入に屈し,年末死去。熊本市の植木市を指示したといわれ,同城下町の原型は彼の時代に形成されたとみられる。<参考文献>『上井覚兼日記』
(阿蘇品保夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報