城親賢(読み)じょう・ちかまさ

朝日日本歴史人物事典 「城親賢」の解説

城親賢

没年天正9.12.29(1582.1.23)
生年:生年不詳
戦国時代末の肥後(熊本県)の国人領主。親冬の子。通称十郎太郎。越前守。山鹿郡城村を苗字の地とする菊池一族で,守護大名菊池氏の三老臣家の直系。父親冬は天文19(1550)年の菊池義武の失地回復戦で大友方に味方し,恩賞として本領に代え飽田,詫麻2郡の支配を認められて隈本城主となった。親賢の名は弘治2(1556)年菊池重朝の「菊池万句」の発句書写が初見,官途も称しており,すでに家督を継いでいたらしい。天正6(1578)年までは大友氏に従ったがその後は島津氏と結び,同8年には島津勢を領内に招き入れ国内計策を行うも,同9年肥前竜造寺氏の侵入に屈し,年末死去。熊本市の植木市指示したといわれ,同城下町の原型は彼の時代に形成されたとみられる。<参考文献>『上井覚兼日記

(阿蘇品保夫)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「城親賢」の解説

城親賢 じょう-ちかまさ

?-1582* 戦国-織豊時代武将
城親冬の子。肥後(熊本県)隈本(くまもと)城主。天正(てんしょう)6年ごろ島津氏の支援で大友氏の支配を脱したが,9年竜造寺氏に攻められてこれにしたがう。熊本の植木市は親賢の指示にはじまるという。天正9年12月29日死去。通称は十郎太郎。

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