堀田正養(読み)ほった・まさやす

朝日日本歴史人物事典 「堀田正養」の解説

堀田正養

没年:明治44.5.10(1911)
生年嘉永1.2(1848)
明治時代の政治家。旧近江国(滋賀県)宮川藩主。明治2(1869)年,廃藩置県により宮川藩知事に任ぜられ,版籍奉還以後は東京府会議員,赤坂,下谷,深川各区長を歴任した。17年子爵。23年貴族院議員。24年大原重朝,山内豊誠,千家尊福らと貴族院院内会派である研究会の組織化に幹事として参画。以後,研究会の領袖として貴族院に重きをなした。研究会が反政友会勢力であった41年3月,第1次西園寺内閣逓信大臣として入閣して,世間をあっといわせたが,その翌月には研究会を除名された。

(西尾林太郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀田正養」の解説

堀田正養 ほった-まさやす

1848-1911 幕末-明治時代の大名,政治家。
嘉永(かえい)元年2月28日生まれ。出羽(でわ)亀田藩(秋田県)藩主岩城隆喜(たかひろ)の子。堀田正誠(まさみ)の養嗣子となり,文久3年近江(おうみ)(滋賀県)宮川藩主堀田家9代。廃藩後,東京赤坂などの区長をつとめ,明治23年貴族院議員となって研究会,尚友会の設立尽力。41年第1次西園寺(さいおんじ)内閣の逓信相。子爵。明治44年5月10日死去。64歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の堀田正養の言及

【貴族院】より

… もっとも,日露戦争後のいわゆる桂園時代に,政友会は山県閥の貴族院支配に挑戦を試みた。まず第1次西園寺公望内閣の末期に,研究会の指導者堀田正養(子爵)を逓信大臣として入閣させて同会の分裂をはかり,また研究会の勢力外であった男爵議員の掌握をめざして木曜会の千家尊福(男爵)を司法大臣として入閣させた。後者の背景には,日清・日露戦争の結果,軍功などによる男爵の数が増加し,勅選議員と子爵議員を中心とする山県閥の貴族院支配に若干の動揺が生じたという事情があった。…

【研究会】より

…子爵議員を中心とする貴族院内最大の院内団体で,1891年11月に結成され,1947年3月の帝国議会の終幕まで存続した。結成当時の幹部は,伯爵大原重朝,子爵京極高典,同加納久宜,同山内豊誠,同鍋島直虎,同堀田正養で,1892年11月の第4議会開会当時には70名の議員を擁していた(侯爵1,伯爵6,子爵26,男爵10,勅選12,多額納税者15)。同会は92年7月に選挙母体として尚友会を組織したが,伯・子・男三爵議員の互選が完全連記制であったために,補欠選挙や総改選のたびに,この尚友会は威力を発揮した。…

※「堀田正養」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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