ふかがわ ふかがは【深川】
[二] 旧東京市三五区の
一つ。明治一一年(
一八七八)東京府一五区制の発足により成立。同二二年、東京市の
市制施行とともに東京市に編入された。昭和二二年(
一九四七)城東区と
合併して江東区の一部となる。
[三] 北海道中央部の地名。
石狩平野の北端部にある。石狩川が
貫流。明治二八年(
一八九五)
屯田兵村の開設によって発展。道有数の米作地で、リンゴの栽培も行なわれる。
木材加工・窯業・食料品などの工場がある。昭和三八年(
一九六三)市制。
[四] 俳諧撰集。一冊。
洒堂(しゃどう)編。元祿六年(
一六九三)刊。洒堂が深川の
芭蕉庵に滞在した折の記念集。「軽み」を代表する一集として高い評価を得た。
しんせん【深川】
江戸の
岡場所の一つである深川
(ふかがわ)をしゃれて音読した語。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「深川」の意味・読み・例文・類語
ふかがわ【深川】[北海道の市]
北海道中部の市。石狩平野北部に位置する。函館本線などの通る交通の要地。屯田兵の開拓により発達。米・リンゴ栽培などが行われる。人口2.4万(2010)。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
深川
ふかがわ
現江東区の西側北部一帯の地域呼称。江戸時代は西が大川(隅田川)、南が海浜、東はほぼ十間川(現横十間川)、北はおおむね竪川以南(一部本所と交わる)が範囲であった。
〔小名木川の開削〕
深川の地名は徳川家康の江戸入府の頃に当地域を開拓した深川八郎右衛門の名にちなむ。摂津国出身という八郎右衛門ほか六名の者が、隅田川沿岸に近い小名木川以北の地を開拓して深川村が成立したのが慶長元年(一五九六)で、それまでは海浜の地で一面萱野であったという。村内には鎮守として深川神明宮が創建された。深川村成立に先立つ天正一八年(一五九〇)家康入国の頃より小名木川の開削が進められた。同川は隅田川と中川を結ぶ運河で、下総国行徳(現千葉県市川市)産の塩を江戸城に運送するための水路として開削された。この運河の成立によって沿岸は急速に町場となり、深川村周辺は西の隅田川から東の猿江村付近までが深川町と総称されるようになった。また南岸部には海岸線を埋立てた所に海辺大工町が成立した。当初は海辺新田と総称されたが、元和―寛永(一六一五―四四)頃沿岸が奥川船の湊町となり船稼の者や船大工が集住し、早くから町場となった。このように小名木川は江戸への入口ともなったことから、隅田川口に通航の物資と人を監督する船番所が置かれた(のち中川口へ移転)。小名木川以北の隅田川沿岸には幕府船舶を格納する御船蔵が立並び、上流の浅草御米蔵・本所御竹蔵などとともに幕府の倉庫施設が集中していた。
〔掘割の開削〕
寛永年間には隅田川沿岸の砂洲状の地域が開発された。寛永六年の深川猟師町の成立である。現在の佐賀・永代・福住・清澄周辺の土地を整備して猟師町として居住したい旨の願出があり、開発者の名から付けられた猟師町八ヵ町が成立した。無年貢であったが将軍御成りの役船調達、月三回の御菜御肴の献上などが義務付けられていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
深川【ふかがわ】
東京都の旧区名。1947年城東区と合併,江東区となった。隅田川河口左岸の低湿地を占め,運河が縦横に通じる。江戸初期に開発され,富岡八幡宮,深川不動尊などの門前町や木場を中心に発達。明治時代,洲崎に遊廓(ゆうかく)ができた。現在は中小工場が多い。清澄庭園がある。
→関連項目岡場所|元禄の大火|講武所|菅野兼山|干鰯問屋
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ふかがわ【深川】
東京都江東区西部の地名。旧深川区にあたり,隅田川河口の東岸を占める。〈深川〉の名は慶長年間(1596‐1615)に大坂から移住してこの付近を開発した深川八郎右衛門にちなむといわれる。江戸城の辰巳(たつみ)(南東)の地にあたるところから辰巳とも称した。1878年深川区が設置され,1947年城東区とともに江東区となった。そのほとんどの地域が江戸時代以来の埋立地であるうえ,第2次大戦後,地盤沈下が急速に進み,いわゆる0メートル地帯が広くみられる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
深川
ふかがわ
東京都江東区西部の地区で,旧区名。隅田川のデルタ地帯にあたり,小工場,商店,住宅が混在している。江戸時代には材木業が集中し,深川木場として繁栄した。南西部は富岡八幡宮,深川不動尊のある古くからの繁華街。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典内の深川の言及
【江戸】より
…1721年(享保6)に幕府評定所は〈無宿幷宿なし同然の者〉が集住するようになった地域として,根津権現,護国寺門前,越中島辺,麻布,本所辺の新町をあげ,以後こうした新町の設立を認めないとしたように,拡大しつつあった都市域には,下層民が定着する,いわゆるスプロール現象が進行していったのである。こうした山手の町々が無秩序にスプロール化していったのに対し,寛文~元禄期(1661‐1704)に造成された本所・深川の地域では,整然とした町並みで,武家地と町地が設定されていったが,その町々にも多くの下層民が定着していった。 つぎに江戸の都市的膨張を町数の面からみると,寛永期の古町中心の300町から,1713年(正徳3)には,代官所支配地の町も編入して933町に,ついで45年(延享2)には寺社門前町の町地編入も含めて1678町と増大している。…
【蓬萊山人帰橋】より
…本姓河野氏。上州高崎藩士で江戸深川に住む。1779年(安永8)《美地の蠣殻(かきから)》以後,《通仁枕言葉(つうじんまくらことば)》(1781),《富賀川(ふかがわ)拝見》(1782)など,深川の遊里に強い愛着を持ち,その風俗をうがち,深川女の意気地を描く。…
【長門[市]】より
…人口2万5118(1995)。三方を山に囲まれ,中央を深川(ふかわ)川が北流して深川湾に注ぐ。北東端の仙崎の砂嘴の先に青海(おうみ)島が浮かぶ。…
※「深川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報