塚崎宿
つかざきじゆく
塚崎は柄崎・竹尾・武雄などとも書かれており、塚崎温泉にある領主(武雄鍋島家)のお茶屋が本陣であった。享保年間(一七一六―三六)に長崎街道の塚崎通(彼杵通)が開通してからできた宿場で、成瀬通(塩田通)より旅客の数は多かった。温泉が桜山(蓬莱山)の南麓にあったためである。現武雄温泉の楼門のある所に本陣の正門があり、門内に本陣と温泉場があった。門外の左に脇本陣、右に里代官所と佐賀藩の郡代役所があり、現宮野町交差点に制札場があって向い側に馬継場があった。この一帯を湯町とよび湯町代官の支配下にあった。
長崎街道の塚崎通は北方宿から追分(ともに現杵島郡北方町)で唐津道を分岐し、高橋村を通って塚崎宿に至り、三里の行程で嬉野宿(現藤津郡嬉野町)に通じており、途中三つの山を越える三坂があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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