多藝郡(読み)たぎぐん

日本歴史地名大系 「多藝郡」の解説

多藝郡
たぎぐん

和名抄」東急本国郡部の訓注に「多支」とある。郡名の用字は多彩で、当藝・当耆・当嗜・当伎・多紀・多伎などがあるが、後の三つは清音濁音の書分けを厳密にしないもので、本来はタギであろう。明治三〇年(一八九七)上石津かみいしづ郡と合併して養老ようろう郡となり、郡名は消滅した。近世の郡域は現在の養老郡養老町、および海津かいづ南濃なんのう町・大垣市の一部にあたる。

〔古代〕

「古事記」に、東征をおえた日本武尊が伊勢への帰路、伊吹山で病を得、当地で歩行困難となって「当藝当藝斯玖たぎたぎしく成りぬ」といったとの説話がある。当郡は西美濃と伊勢・尾張を結ぶ交通路として重要な位置にあり、壬申の乱に際し、大海人皇子が伊勢より不破に至った折も当地を通過した。郡域は斉衡二年(八五五)の石津郡分立までは美濃国の南西端にあって、鈴鹿山系を越えて西は近江国、養老山地を南に越えると伊勢国、木曾三川を越えた東は尾張国海部あま郡と境を接していた。北は不破郡、東は杭瀬くいせ川を挟んで安八あんばち郡と接した。石津郡分立後、郡域は現養老町を中心とする一帯となったとみられるが、石津郡域は古代中世を通じて変動があったとされ、当郡域についても詳細は不明な点が多い。養老山地の東側を中心に古墳群が分布する。

郡名の初見は「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月二三日条に「美濃国多伎郡民七百十六口、遷于近江国蒲生郡」とある。奈良時代当郡への行幸があった。霊亀三年(七一七)および養老二年(七一八)の元正天皇の二度の行幸、天平一二年(七四〇)の聖武天皇の行幸があるが(続日本紀)、とくに霊亀三年の元正天皇行幸に際しては、多度たど(現養老町)醴泉の効験を大瑞として養老への改元が行われ、国司郡司への加階が行われるとともに当郡の調・庸が免除された。天平四年三月二五日の僧智首解(正倉院文書)に「美濃国当嗜郡垂穂郷三宅里」とあり、郷里設定が推定でき、現養老町なか大坪祖父江そぶえに一之坪、飯田いいだに八ノ坪・東九ノ坪・西九ノ坪などの地名も残るが、条里遺構は不破郡と接する部分に、現不破郡垂井たるい表佐おさ栗原くりはら地区の条里と同規格のものが若干確認されるにすぎない。斉衡二年閏四月一九日多藝・石津の二郡に分割された(文徳実録)

「和名抄」には八郷が記載されるが、諸本とも郷名に訓を欠く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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