日本歴史地名大系 「養老郡」の解説 養老郡ようろうぐん 面積:一九三・七四平方キロ養老(ようろう)町・上石津(かみいしづ)町明治三〇年(一八九七)多藝(たぎ)郡と上石津郡が合併して成立した郡で、郡名は養老霊泉行幸・養老孝子伝説をもつ養老山地を中央にいただくことにちなむ。北は不破郡垂井(たるい)町・関ヶ原町、北東は大垣市、東は安八(あんぱち)郡輪之内(わのうち)町、南東は海津(かいづ)郡平田(ひらた)町、南は同郡南濃(なんのう)町と三重県員弁(いなべ)郡北勢(ほくせい)町・藤原(ふじわら)町、西は滋賀県犬上(いぬかみ)郡・坂田(さかた)郡と接する。岐阜県の南西端に位置する郡。郡の中央やや東をほぼ南北に養老山地が連なり、それより西部は山地で郡内最大の河川である牧田(まきだ)川の上流域となっている。東部は濃尾平野の西端部を形成する。〔原始〕郡の東部の平地部は木曾・長良・揖斐(いび)の三大河川が伊勢湾に注ぐ河口域にあたり湿地帯であった。開発は養老山麓の比較的高い地域から始まったようで、考古遺跡もそれらの地に集中する。上石津町の三ッ里(みつさと)から有舌尖頭器、同細野(ほその)から木葉形尖頭器が出土、また縄文時代と推定される石鏃・石斧・石棒が細野・下山(しもやま)から出土している。養老町域では宇田の西勝(うたのさいしよう)寺境内から石鏃が発見され、縄文時代・弥生時代の土器もわずかながら発見されている。古墳時代には多くの古墳が築造され、当地方の開発が進んでいたことが知られる。養老町域では北端にある南宮(なんぐう)山から南の養老山東麓にわたり、北から象鼻山(ぞうびさん)(橋爪)古墳群・別所(べつしよ)古墳群・室原(むろはら)古墳群・桜井(さくらい)古墳群・勢至(せいし)古墳群・竜泉寺(りゆうせんじ)古墳群・白石(しらいし)古墳群・京(きよう)ヶ脇(わき)古墳群・若宮(わかみや)古墳群などがあり、上石津町域からは二又(ふたまた)一号墳を含む牧田古墳群が発見されている。〔古代〕「和名抄」によると多藝郡に冨上(とみのかみ)・物部(もののべ)・垂穂(たるほ)・立野(たちの)・有田(ありた)・田後(たじり)・佐伯(さえき)・建部(たけるべ)の八郷があったが、このうち佐伯郷を除く七郷を現養老町域に、石津郡の大庭(おおにわ)・建部・桜樹(さくらぎ)・山(やまざき)の四郷のうち大庭・桜樹の二郷を現上石津町域に比定する説があるが、必ずしも諸説一致しない。なお条里の遺名と推定される地名が養老町沢田(さわだ)に丁田(ちようだ)、同町飯田(いいだ)に八(はち)ノ坪(つぼ)・西九ノ坪、同町祖父江(そぶえ)に一之坪(いちのつぼ)などがある。「延喜式」神名帳に記載の多藝郡四座(並小)の「多伎(タキノ)神社」「大神(オホムワノ)神社」「御井(ミイノ)神社」「久久美雄彦(ミヲヒコノ)神社」のうち、多伎神社は養老町三神(みかみ)町の多岐(たぎ)神社、大神神社は上石津町宮の大神(みやのおおみわ)神社、久久美雄彦神社は養老町沢田の久々美雄彦(くくみおひこ)神社、御井神社は同町金屋の御井(かなやのみい)神社に比定されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by