日本の城がわかる事典 「大光寺城」の解説 だいこうじじょう【大光寺城】 青森県平川市の小高い丘の上にあった平城(ひらじろ)。鎌倉時代初期の1217年(建保5)、曾我氏の一族の平広忠が相模(現神奈川県)から地頭代として入部して、この地に本拠を構えたのが始まり。大光寺城は11世紀初期、曽我道性によって築城されたとされる。南北朝時代には本家(大光寺家)と分家(岩館)が、北朝方と南朝方に分裂して争い、その後、根城南部氏の攻撃を受け大光寺曾我氏は滅亡したといわれる。その曾我氏の館跡を大光寺古館という。近くには、大光寺曾我氏滅亡後、安東氏の一族の安東秀光(その後大光寺氏を名乗った)が築いた大光寺五日市館が、また大光寺三村井には安東氏の勢力を駆逐して、この地を勢力下に収めた南部氏の重臣南部信愛(のぶちか)が築いた大光寺新城がある。現在、大光寺城と呼ばれているのは大光寺古館、大光寺新城、大光寺五日市館の3つの城址の総称である。その後、戦国時代、大光寺城には南部氏家臣で猛将として名高い滝本重行が入ったが、1575年(天正3)に、津軽為信に攻められて落城し、以降江戸時代初期まで津軽氏の拠点の一つとして利用された。1610年(慶長15)、大光寺城は破却され、その建材は弘前城の築城に利用された。現在、弘前城に残っている亀甲門はかつての大光寺城の城門だったと伝えられている。現在、城跡は公民館や住宅地となっており、公民館のある広場の東側に郭の名残と思われる段差が残っている。弘南鉄道弘南線平賀駅から徒歩約20分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報