百科事典マイペディア 「安東氏」の意味・わかりやすい解説
安東氏【あんどううじ】
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中世北奥羽の豪族。鎌倉・南北朝期には安藤と記す。安倍貞任の子高星の後裔と伝える。鎌倉時代には北条氏の被官となり,津軽鼻和郡・西浜・糠部郡などの北条氏所領の代官(地頭代)を務めた。また,蝦夷管領の代官として〈蝦夷の沙汰〉を行った。同時期に西国方面で活躍した駿河国安東庄出身の北条氏被官安東氏と同族とする説もあるが疑わしい。鎌倉後期の1268年(文永5)ころから始まる蝦夷反乱に関連して,一族の内紛が起き,幕府軍の追討をうけたが,屈服するには至らなかった(いわゆる安東氏の乱)。南北朝内乱期には,安藤家季・師季らが足利方の〈津軽合戦奉行〉として活躍した。安藤氏の勢力は秋田方面にも及び,秋田湊に居を構えて湊安東を名のる一族もあらわれた。津軽十三湊(とさみなと)で〈日之本将軍〉〈下国(しものくに)殿〉と称した安東氏の本流は,1432年(永享4)南部氏に追われて蝦夷地に逃れたが,のちに檜山(秋田県能代市)にもどり,檜山安東を名のった。戦国大名秋田氏はその後身である。
執筆者:入間田 宣夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中世の陸奥(むつ)国津軽(つがる)地方の豪族。安藤氏とも書く。前九年の役で討たれた安倍貞任(あべのさだとう)の子高星(たかあき)の子孫と伝える。鎌倉時代には幕府の執権(しっけん)北条氏の代官として津軽の北条氏所領を支配し、また北海道から来航し、津軽にも住んでいた蝦夷(えぞ)(後のアイヌ人か)の統轄者であった。鎌倉末期にはその蝦夷の反乱に始まる安東氏の乱(1317?~1328)を起こしている。日本三津七湊(さんしんしちそう)の一つである十三湊(とさみなと)(青森県五所川原(ごしょがわら)市)を押さえていて、日本海海運に関係が深く、室町時代には「奥州十三湊日之本将軍」と称していた。1432年(永享4)ごろ南部(なんぶ)氏との戦いに敗れて、北海道に渡り、のち檜山(ひやま)(秋田県能代(のしろ)市)に移って、戦国大名秋田氏の祖になったという。
[大石直正]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。当時この交易で重要な役割を果たしたのが津軽十三湊(とさみなと)の安東氏であった。15~16世紀になると渡島半島南部に安東氏配下の小豪族が館を築いて群雄割拠し若狭の小浜や越前の敦賀の商人と交易したため,蝦夷地と上方を結ぶ商品流通・海運は一段と発展した。…
…この内乱期から室町幕府支配の下で,郷村を名字とする数多くの土豪層,国人層が台頭し,守護大名的領主も出現する。庄内の大宝寺氏,仙北の小野寺氏,米沢・伊達の伊達氏,秋田・津軽の安東氏は,京都扶持衆にもなった。十刹諸山に指定された光明寺,勝因寺,崇禅寺,金剛寺,資福寺は彼らの勢力範囲に照応する。…
…平安末期の津軽四郡建置のころから港湾として整備され,鎌倉期に幕府が蝦夷島支配を重大政策としたのに伴い,蝦夷管轄基地として脚光を浴びた。蝦夷沙汰を担当する北条氏が地頭も兼ね,代官に安東氏を置いて管轄。北条氏滅亡後は,〈十三湊日之本(ひのもと)将軍〉を称する安東氏の本拠地となり,蝦夷地と日本海海運を結ぶ重要港として発展した。…
※「安東氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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