中国湖北省の鉄鉱石産地。漢冶萍(かんやひょう)公司(コンス)の製鉄原料部門となる。日本の八幡製鉄所(やはたせいてつしょ)との関係が深く、ここの鉄鉱石買入れ契約を結んだ(1899年)ことで、八幡製鉄所は開業の目途(めど)がついたという。1904年(明治37)には、大冶鉄山を担保とする300万円の借款供与が行われたが、これは日本政府による対外借款第1号である。その後も大冶鉄山、すなわち漢冶萍公司に対する借款は継続され、積み重ねられて20世紀初頭における日本の対外借款の代表例となる。このようにして獲得した漢冶萍公司に対する金融的支配により、鉄鉱石等の八幡製鉄所への納入価格や納入量は、長期にわたって固定され、同公司の経営を圧迫した。1900~1924年(大正13)までに八幡製鉄所へ鉄鉱石換算で約600万トンが納入されている。これは大冶鉄山の同期間総産出量の3分の2に達した。
[安藤 実]
『安藤実著『日本の対華財政投資――漢冶萍公司借款』(1967・アジア経済研究所)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
中国湖北省大冶県にある鉄山。清末期から官営で鉄鉱山の開発が始められていたが,1908年(明治41)漢冶萍(かんやひょう)公司に合併。日本は同公司に対する借款を通じて鉄鉱石の確保をはかったため,大冶は八幡製鉄所の重要な鉄鉱石輸入先となった。日中戦争が始まると,38年(昭和13)同地方が日本軍の占領下におかれ,日本製鉄大冶鉱業所となったが,敗戦とともに中国側に引き渡された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中国の清朝末期に設立された最大の製鉄会社。湖北省の漢陽鉄廠,大冶(だいや)鉄山,江西省の萍郷(ひようきよう)炭鉱の3事業を統合するもの。1890年湖広総督張之洞は京漢鉄道への鋼材供給などの目的で,漢陽鉄廠を官営企業として発足させた。…
…市内には丘陵,湖沼が多い。西方26kmのところに大冶鉄山があり,1891年(光緒17)に開発された。鉄山との間に鉄道・自動車網が縦横に交錯しており,ここからかつて日本の八幡製鉄所へ原料鉱として積み出された。…
… 地下資源も豊富で工業の発展の基礎となっている。鉄鉱石の埋蔵量が最も多く,大冶鉄山は中国内でも有名である。鉱石中の鉄分含有率が65%を超える優良鉱で,副産物として銅やそのほかの非鉄金属の鉱床も多い。…
※「大冶鉄山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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