大口・大口郷(読み)おおくち・おおくちごう

日本歴史地名大系 「大口・大口郷」の解説

大口・大口郷
おおくち・おおくちごう

大口市の北東半を占める。薩摩国の北端にあたり、肥後国境に位置していた。

〔中世〕

中世には大口は大口城、および同城を中心とした地域をさした。同城を含む地域は長禄二年(一四五八)頃には牛山うしやまと称されていたが(「相良氏山門知行以下由緒書」相良家文書)、明応八年(一四九九)島津忠明(島津忠国弟有久の孫、大島氏)に与えられたのち、大口とよばれるようになったとされる(両院古雑徴写)。大島氏系図などによれば、忠明は大口の地で肥後相良氏と戦い、同氏を破った功により大口三五〇町を宛行われたとある。その後「新納忠元勲功記」、箕輪伊賀覚書(旧記雑録)などに永禄(一五五八―七〇)末年頃までの合戦についての記事に大口および大口城が散見されるが、いずれも後世編纂・成立であるため、大口の名称がこの頃用いられていたかどうか確認できない。天正二年(一五七四)と推定される三月四日付の島津義虎書状(喜入氏系図)、「上井覚兼日記」同年一〇月五日条などが、大口が同時代の史料にみえる早い例である。

天正四年八月の日向高原たかはる(現宮崎県高原町)攻めの際、大口衆は島津忠平(義弘)の手勢として加わっていた(「上井覚兼日記」同月一八日条)。同年一〇月頃、相良氏と島津氏の和睦を周旋していた近衛前久は大口まで来り、島津義虎・新納忠元と面談したのち薩摩側に引返している(一〇月一一日「島津忠平書状」相良家文書)。同八年の肥後合戦陣立日記(旧記雑録)には、諸外城諸地頭付衆中として大口の新納武蔵守(忠元)の名をあげる。同一一年一〇月七日の肥後堅志田かたしだ(現熊本県中央町)攻めの際に、大口衆は上井覚兼の手勢として加わった。一一月二五日早朝覚兼は肥後国久木野くぎの(現同県水俣市)を立ち、大口で酒などをとったのち般若はんにや(現吉松町)に着いている。翌一二年五月九日久木野から小川路(小川内か)の亭主丸田のもとに至った覚兼は同所で一泊、翌一〇日大口麓で新納忠元と会って酒宴ののち、忠元が提供した馬・夫丸多数に送られて日向国に入った(上井覚兼日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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