一之宮村
いちのみやむら
尾張国の一宮真清田神社の門前町として古くから集落を形成、江戸時代には、近郷の商品生産の集散地としての市場町的な性格を加えて発展した。「徇行記」に概高三千八八九石余のほか、七〇石余の山方新田、三石余の山方後新田、二九一石余の古川新田、六〇石七斗余の子新田、三石六斗余の寅新田、五石余の同所新田、一〇石余の午新田、六石余の丙新田、一四石余の後子新田、一石余の亥新田と一〇回にわたる新田開発が行われた。町場(屋敷地)は見取場として三三町九反余、朱印地が三三三石余とある。「寛文覚書」には枝郷として「印田・牛野・小島・両古寺」とあり、家数四九〇、うち社家四九、人数二千九三五とある。
天保村絵図によると、真清田神社の正門を直線に参道が続き両側一帯は屋敷地で町場の姿がよく示されている。
一之宮村
いちのみやむら
[現在地名]岡山市一宮
尾上村の北、吉備の中山の北東麓に位置し、集落は備前一宮吉備津宮(現吉備津彦神社)の門前に発達した。山陽道が通り、街道沿いに茶屋が並び、細谷川が西隣の備中賀陽郡宮内村との境をなした(吉備温故秘録)。江戸時代、郷帳類や各地誌では一之宮(一ノ宮)村・一之宮(一ノ宮)敷地村の二村に分けて記されることが多いが、両村の田地・居宅ともに入組んでいて実質的には一所であり、かつては一村であったと伝えられる。慶長六年(一六〇一)の小早川秀秋寄進状(吉備津彦神社文書)で「津高郡宮内村則於敷地」三〇〇石が吉備津宮に寄進されていることなどから、古くは宮内村とも称し、このうち吉備津宮や別当の神宮寺・山神山神力寺などにかかわる地域を一之宮敷地村として分立させ、他を一之宮村としたものと考えられる。
一之宮村
いちのみやむら
[現在地名]上野市一之宮
印代村の東。東の南宮山(約三五〇メートル)は神奈備形の円錐状で「小富士山」(伊水温故)とよばれ、西南麓の大岩古墳からは管玉・勾玉・碧玉など、その西の二の谷古墳からは鉄器・鏡類が出土している。南宮山の北谷や宮谷にも古墳があり、これらを背景に伊賀一宮の敢国神社が鎮座する。南の寺田村から当村を経て千歳村へ通ずる道は、多少の変遷はあるが奈良朝期以前からの古道で、壬申の乱に大海人皇子軍が通った道といわれる。天正一〇年(一五八二)伊賀衆が蜂起し(勢州軍記)、森田浄雲らが戦死した富坂古戦場は、城跡らしい面影をほとんどとどめない。
一之宮村
いちのみやむら
[現在地名]一宮町一宮
東は宝川を境に松原村、西は帯川を境に大木村に接する。伊那街道が南の麻生田村(現豊川市)から村域中央を通り北方長山村へ至る。また新城道が大木村から当村を経て長山村で伊那街道と結ぶ。
慶長九年(一六〇四)の三州宝飯郡一宮村御検地帳(草鹿砥宜和氏蔵)によると、反別合計二六町一反余で、分米二八六石余である。地名には、西かいと・御幣てん・かいほつ・志やくち・一町畠などがみえる。
一之宮村
いちのみやむら
[現在地名]糸魚川市一ノ宮・一の宮一―五丁目・南寺町一丁目・同三丁目・清崎・中央二丁目・新鉄二丁目・上刈四丁目
糸魚川町の南にあり、東は蓮台寺村、南は大野村に続き、西は上苅村に接する。天正一一年(一五八三)五月一二日の御師蔵田左京亮宛直江兼続安堵状(伊勢古文書集所収文書)によれば、一之宮・蓮台寺の両村はこれ以前より伊勢神宮領で、従来どおり九軒の棟役銭で、軍役として人夫一〇人、槍を持った百姓兵一〇人をどこへでも出すよう定められている。翌一二年一〇月一〇日には上杉景勝から、先例により郡司不入にするとの一札が出されている(糸魚川市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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