日本歴史地名大系 「一之宮村」の解説
一之宮村
いちのみやむら
「和名抄」の寒川郷の地にあたるとされる。「吾妻鏡」正治元年(一一九九)一一月一三日条に「梶原平三郎景時雖下
給彼状訴状
、不
能
陳謝
、相
率子息親類等
、下
向于相模国一宮
」、同一二月九日条に「景時自
一宮所領
帰
参鎌倉
」とあり、正治頃は梶原氏の所領であり、翌二年一月二〇日条には景時が「此間於
当国一宮
構
城郭
」とある。宝徳三年(一四五一)三月二七日の鎌倉
小田原衆所領役帳に、花之木「百五拾貫文 東郡一宮之内」、山中寄子福岡十兵衛「四拾一貫百七拾五文 東郡一宮内」、南条寄子行谷藤五郎「拾五貫文 行谷一宮内」、富塚寄子福岡平三「拾四貫七十五文 一宮内」とある。
一之宮村
いちのみやむら
- 愛知県:一宮市
- 一之宮村
尾張国の一宮
天保村絵図によると、真清田神社の正門を直線に参道が続き両側一帯は屋敷地で町場の姿がよく示されている。
一之宮村
いちのみやむら
一之宮村
いちのみやむら
一之宮村
いちのみやむら
一之宮村
いちのみやむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報