朝日日本歴史人物事典 「大崎義直」の解説
大崎義直
戦国時代の武将。義兼の子,左京大夫。大崎氏は奥州管領として下向した斯波家兼を祖とする。4管領時代を経て単独奥州管領として陸奥国内の政治的頂点に立つ。大崎5郡を領有してやがて戦国大名へ成長していく。この大崎氏の10代高兼が早世したあとをついだのが11代義直。大永3(1523)年伊達稙宗が陸奥国守護に補任されたため,大崎氏は奥州第1の地位を失った。また天文5(1536)年大崎一族の重臣らが義直に反旗をひるがえし,そこで義直は伊達稙宗をたのんで反乱軍を鎮圧した。が,稙宗はその子小僧丸(義宣)の入嗣を強要してきたため受け入れざるを得なかった。そのため伊達氏の天文の乱の際には,義宣・稙宗方,義直・晴宗方に大崎家が2分して争い,晴宗の勝利によって義宣は追放され,大崎氏は一時独立性を回復。さらに永禄のころには,国分,相馬,伊達,田村の連合軍を迎撃して互角に戦うなど大崎氏の家運を保った。居城は,天文の内訌後,加美郡中新田城から玉造郡名生(宮城県古川市)へ移されたと考えられる。これは岩手沢氏家氏対策のためであろう。<参考文献>伊藤信「大崎氏の歴代について」(『宮城の研究』3巻)
(伊藤清郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報