室町期~戦国期の城。石川県七尾市古城(ふるしろ)町にあり、城が菊、亀(かめ)、虎(とら)、松、梅、竹、龍の七つの尾根のうちの松尾にあったことから、松尾城ともよばれる。1406年(応永13)能登(のと)守護になった畠山満則(満慶)(はたけやまみつのり)によって初めて築かれたとされるが確証はなく、6代義元(よしもと)のときに築かれ、7代義総(よしふさ)の代に拡張されたと考えられている。能登畠山氏の本城として発展したが、1577年(天正5)西上を志す上杉謙信(けんしん)に攻められて落城。のち1581年前田利家(としいえ)がこの城に入ったが、翌年新しく小丸山に城を築いて移り廃城となった。本丸、二の丸、調度丸などに石垣が残り、城山とよばれる城址(じょうし)一帯には無数の曲輪(くるわ)がみられる。
[小和田哲男]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…古くから能登半島の行政,経済,文化の中心都市として栄えてきた。古代には能登国の国府,国分寺が置かれ,室町時代に守護畠山氏が七尾城を築き,天文年間(1532‐55)にはその城下に多くの家がたち並んだという。近世には七尾は所口(ところぐち)町(所口)と呼ばれ,1581年(天正9)七尾城に入った前田利家は翌年小丸山城を築いて城下町の経営をはかった。…
…かわって1471年(文明3)本願寺蓮如の北陸布教以後,真宗本願寺派の教線が急速に浸透し,戦国後期には坊主組織の整備もはかられ,鳳至郡阿岸(あぎし)本誓寺,羽咋郡羽咋本念寺などの大坊主がその中核となっていた。
[能登畠山氏と七尾城]
南北朝期の守護には地元羽咋郡出身の吉見氏が登用され,守護支配の進展に努めたが,羽咋郡富来院の富来俊行(とぎとしゆき)や鹿島郡能登島の長胤連(ちようたねつら)など,南朝方と結ぶ勢力も存在し,それに抵抗する動きもあった。南北朝末期,室町幕府内部の争いに連座して吉見氏が失脚すると,足利一門の有力者畠山基国が能登守護に就任した。…
※「七尾城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新