日本の城がわかる事典 「鷹巣城」の解説 たかのすじょう【鷹巣城】 石川県金沢市にあった山城(やまじろ)。金沢城(金沢市)の東南約10km、犀川沿いの標高243m・比高50mほどの山を城域とした城郭である。築城時期や築城者および廃城の経緯・年代は不明。なだらかな尾根に築かれた城で、5つの曲輪(くるわ)を持ち、屈曲した横堀と重ね馬出など織豊系の城郭の特徴を備えた縄張りを有していた。『石川県史』によれば、1576年(天正4)の城主は平野神右衛門(じんうえもん)で、神右衛門は翌1577年(天正5)に越後に赴いて上杉謙信に属したという。織田信長は越前の朝倉氏を滅亡させた後、越前・加賀で起こった一向一揆を平定、このとき90年間にわたって一揆持ちの国といわれた加賀は織田氏の版図となった。信長は、柴田勝家を北陸方面の主将として前田利家、佐々成政、不破光治らを配した。このとき、神右衛門も織田氏に従ったと考えられる。しかし、1577年(天正5)、越後の上杉謙信が加賀に侵攻、七尾城を陥落させ、越前から救援に赴いた織田勢が撤退に転じると、これを追撃して手取川の合戦で撃破した。こうした情勢の中で、城主の神右衛門は上杉氏に臣従することになった。しかし、1578年(天正6)に謙信が急逝すると、織田軍は攻勢に転じ、加賀・能登から越中中部にかけての上杉勢を追い払って勢力圏に収めた。この間に、鷹巣城も織田氏の手にわたったと思われる。前述の『石川県史』によれば、1580年(天正8)には、柴田勝家に属した佐久間盛政が尾山城(金沢市、のちの金沢城)の支城として改修を行い、柘植喜左衛門、敦賀八矢、松本我摩久らを配した。また、一説によれば、柴田勝家が拝郷家嘉を城将として入城させたともいわれている。その後、1583年(天正11)に前田利家が金沢城に入城すると、前田氏の属城となった。前田氏は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)方に属したが、反秀吉の立場をとった越中の佐々成政は、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いに際して、徳川家康・織田信雄側に与し、加賀の前田利家と戦端を開くことになった。その翌1585年(天正13)、成政は鷹巣城に攻め寄せ火を放ったが、利家が反撃、撃退したという記録が残っている。この年、秀吉自ら越中に進撃して、10万の大軍で成政の居城富山城(富山県富山市)を囲み、成政を降伏させている。城跡には郭・土塁・空堀・堀切などの遺構が残っているが整備されておらず山林になっている。石川県教育委員会の史蹟の標柱があるだけで城址碑や説明板はない。JR北陸本線金沢駅からバスで横瀬町下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報