日本大百科全書(ニッポニカ) 「大崎葛西一揆」の意味・わかりやすい解説
大崎葛西一揆
おおさきかさいいっき
豊臣(とよとみ)秀吉の奥羽仕置(しおき)と検地強行に対して起こった大崎・葛西両氏旧臣、土豪の一揆。1590年(天正18)8月、小田原征伐不参のかどで没収された大崎義隆(よしたか)、葛西晴信(はるのぶ)の領地は秀吉の側近木村吉清(よしきよ)に与えられたが、吉清は小身からの成り上り者のため家臣団の統制がとれず、また領民に対する非法が絶えなかった。加えて、当地で強行された太閤(たいこう)検地が両氏旧臣や地侍の反感を買い、一揆に発展したものである。10月陸奥(むつ)国胆沢(いさわ)郡に発した一揆は、たちまち大崎・葛西旧領全域(宮城県北部から岩手県南部)に拡大し、木村父子を登米(とめ)郡佐沼(さぬま)城(登米市)に囲んだ。会津城主蒲生氏郷(がもううじさと)と米沢(よねざわ)城主伊達政宗(だてまさむね)が一揆鎮圧のため出動し、11月吉清らは政宗の手で救出された。この過程で氏郷と対立した政宗は、秀吉の命令により翌年正月上洛(じょうらく)して経過を弁明、帰国後の6月ふたたび出兵し、7月初めの佐沼城攻撃では一揆勢の武士500、農民2000を討ち取り、最終的に一揆を圧伏した。その結果、政宗は伊達などの6郡を没収され、大崎・葛西旧領10余郡を与えられて玉造(たまつくり)郡岩出山(いわでやま)に移った。
[小林清治]